* * *
数日後——
朝の光が、そっと部屋に差し込んでいた。
眠る妹の顔は、ほのかに微笑んでいた。
けれど、その微笑みのまま——
彼女は静かに、最後の息を引き取った。
少年は、そっと妹の小さな手を握りしめる。
そして、かすかに囁いた。
「……ありがとう。お前のおかげで、僕はもう迷わないよ」
妹の葬儀の日、雨が静かに降り続いていた。
小さな棺に白い花が添えられ、母はじっとその前から離れようとしなかった。
少年は傘も差さず、雨の中でただ立ち尽くしていた。
胸の中で、ずっと抱えていた願い。
旅の途中で掴みかけた希望は、結局、妹には届かなかった。
けれど──
妹は最後まで微笑んでいた。
『また……きっと会えるよ。だって、お兄ちゃんは……ちゃんと、守ったんだよね?』
その言葉が、今も少年の心の奥で、小さな灯りのように揺れていた。
* * *
葬儀が終わった後。
少年はひとりで、祖父の家を訪ねた。
祖父は、少年が森へ旅立っていた間、母と妹を支えてくれていた。
長い白髪に短い白髭を蓄えた好々爺——藍色の花の伝承を教えてくれたのも、祖父だった。
家の奥から出てきた祖父は、静かに少年を迎え入れた。
ふたりは囲炉裏の前に並んで腰を下ろし、湯気の立つ質素な茶を口にする。
しばらくの沈黙の後、祖父が穏やかな声で語りかけた。
「……妹のことは、辛かったな。
だが、お前が突然『蒼月の森へ行く』と言って飛び出した時は……正直、驚いたぞ」
少年は小さく頷き、ゆっくりと口を開いた。
「……もう一度、蒼月の森に行こうと思うんだ」
そして、旅で出会った妖精のこと、藍色の花の真実、すべてを静かに語った。
妖精が託してくれた花——
「人間の手が届かぬように、守りたい」と。
祖父は、目を伏せたまましばらく黙りこんでいた。
そして、ぽつりと語り出した。
「……わしの祖父──お前の曽祖父もな……その昔、あの森で藍色の花を刈った人間の一人だったのだよ」
囲炉裏の火がぱちり、と小さく鳴る。
「当時はひどい流行り病があってな。
『藍色の花は万能薬になる』という噂が広まり、多くの者が森に押し寄せた。
曽祖父も家族を救うために、花を摘んで帰ったと聞いている」
祖父の顔には、深い苦しみの影が浮かんでいた。
「……知らなかったんだ。
藍色の花が“癒す薬”ではなく、“夢を与える花”だったとは……」
再び沈黙が降りる。
ただ、囲炉裏の火が静かに揺れていた。
「そうとも知らず、曽祖父は花を刈り──
結果として、妖精たちを滅ぼす側に加わってしまった……罪深いことだ。
命を救おうとした代わりに、別の命を奪っていたのだから」
少年はじっと祖父の横顔を見つめた。
「わしも、長い間あの伝承はただの昔話だと思っていた。
だが、お前が旅に出て……そして、妖精に出会い、花を託されたというのなら──
きっと全ては、繋がっていたんだな」
祖父はゆっくりと少年に顔を向けた。
その瞳には、深い悔いと、静かな願いが宿っていた。
「もしも、あの森に藍色の花が再び咲くのなら──
妖精たちの国が、もう一度息を吹き返すのなら──
どうか……守ってやってくれ。
わしは、もう森の奥深くへ行くことはできん。
わしの願いも一緒に、背負ってくれないか」
少年は小さく頷いた。
涙は出なかった。ただ、その言葉を胸の奥深くに刻み込んだ。
「……うん。必ず守るよ。
誰にも触れさせない。あの花がまた咲き誇る日まで、見守り続ける」
祖父は静かに目を閉じた。
その表情は、少しだけ安らかに見えた。
こうして少年は、また一歩、未来へと歩き出す決意を固めた。
* * *