その夜、街は霧に包まれていた。
細い路地を白く染める靄のなか、誰も気づかぬ足音が、石畳をすべっていく。
月は雲の合間から顔を覗かせ、濡れた屋根瓦に銀の光を落としていた。
誰もが眠りにつくその時、ひとつの小さな家の前で、黒衣の女が立ち止まる。
その姿は女でありながら、月光の幻のように輪郭を曖昧にしていた。
黒銀の髪が夜気に揺れ、群青の瞳は、燃えることを忘れた星のように冷たかった。
その女は、扉の向こうに横たわる命の気配を感じ取っていた。
それは、消えかけた蝋燭の火のように、かすかに揺れながらも、なお温もりを宿している。
だからこそ、彼女は来た。死神として。「生の苦しみ」の声に応える者として。
死神は”見えない翼”を羽ばたかせて舞い上がり、まるで水が砂に染み込んでいくように窓をすり抜け、その姿は家の中へと消えていった。
灯りの落ちた寝室には、ベッドに幼い少女が眠っていた。
細い体。浅い呼吸。白い頬に汗がにじみ、眉間にかすかな痛みの影。
死神はベッドの傍に立ち、その名を静かに声をかける。
その瞬間、まるで応えるように、少女のまぶたが震えた。
……誰?
声は弱々しくも澄んでいた。目を開いた少女は、霧のような瞳で死神を見つめる。
わたしは”死の使い”、”死神”と呼ばれる者だ。
苦しみの終わりを望む声に応え、この夜に現れた。
死神は表情もなく、淡々と静かに答えた。
少女は死神の答えを聞き、全てを理解した。
そして、わずかに笑う。
来てくれて、ありがとうございます。
ずっと一人で苦しかったから。
あなたが来てくれて……なんだか、ほっとした
死神は答えない。
ただ、静かにうなずこうとしたそのとき、少女は言葉を重ねた。
でも……終わらせる前に、一つだけお願いを聞いてくれませんか?
ベッドの上で、少女は真剣な眼差しで死神に小さくか細い手を伸ばした。
私と、友達になって欲しいんです。
これまで1度も友達ができたことなくって……
2日、いや、えっと、3日間だけでいいから
死神は少女の願いを聞いて戸惑った。
その願いは、これまで誰からも聞いたことのないものだったからだ。
死を恐れる声ではない。生に縋る後悔でもない。
ただ、”友人になって欲しい”という、ささやかで切実な願い。
死神はしばし沈黙し、それから静かに頷いた。
…わかった。
では三日間だけ、あなたが死を受け入れるその時まで、私は友人としてここにいよう。
ただ――
そう言いかけて死神は口ごもり、少女は首を傾げる。
私も、これまで友達がいたことはないぞ
それを聞いた少女は、笑顔を声をあげて笑った。
笑い声はひどく小さく、すぐ咳に変わったが、それでも彼女は微笑んでいた。
少女の笑い声に、死神は瞬きもしないまま、それでもどこか困ったように眉をひそめた。
笑う理由が、死神にはよく分からなかったからだ。
――でも、それが心地よくもあった。