第八章 再出発

カーテン越しに、淡く揺れる光が差し込んでいた。

東の空はうっすらと朱を帯び、夜の帳を押しのけるように、朝が静かに近づいている。

(……夢、だったのかな)

ゆっくりと身を起こし、ぼんやりと窓を見つめた。

胸の奥にはまだ熱が残っている。

あれはただの夢じゃない。そんな気がしてならなかった。

ふと、手に何かを握っていることに気づく。

掌を開くと、そこには—— スーに贈った、あの首輪のリボン。

「……やっぱり、夢じゃない」

ぽつりと呟き、リボンを胸に抱いた。

スーと再会した夜。

あの蒼く輝く満月、幻想に染まった町、静けさに満ちた石畳の道。

ふたりで歩き、語り合い、笑い、泣いた夜。

すべてが、今も鮮明に焼きついている。

(描きたい。スーと過ごしたあの景色を、あの時間を、わたしの手で……)

衝動のような想いが、胸を突き上げた。

ベッドから飛び降り、カーテンをさっと開ける。

淡い朝の光が部屋に差し込み、その光のなかで、机の上にスケッチブックを広げ、ペンを取った。

紙の上に、記憶の中の風景をなぞっていく。

蒼い光を纏った町並み、宝石のように輝く石畳、雪山にかかるオーロラのカーテン——

滑らかにペン先が動き、細部を追うたびに、心が落ち着いていく。

(……だけど、これだけじゃ足りない)

線画だけでは、あの蒼の深さも、光の揺らめきも、映しきれない。

(“彩の間”なら……あそこなら、きっと)

ギルドにある、色と光と空気を封じ込めるように仕立てられた、創作のための聖域。

いてもたってもいられず、机を離れてクローゼットから服を選んで着替え始めた。

今はまだ七時前。九時発の列車に乗れば、昼過ぎにはギルドに着ける。

着替えを済ませ、コートを羽織り、カバンに荷物を詰め込む。

最後に、スケッチブックと黒いリボンもそっとしまいこんだ。

玄関に向かう途中、リビングからパンを焼く匂いが漂ってくる。

両親はすでに起きてリビングにいた。

エルヴァンはソファに腰かけ、メガネをかけて仕事道具のチェックをしている。

リゼットはキッチンで朝食の準備をしていた。

「あら、おはよう。どうしたの? どこか出るの?」

リゼットが驚いたように振り返る。

「うん。九時発の列車で、ギルドに戻るよ。ごめんね、突然」

きっぱりと言った。

「もう大丈夫だから。どうしても、やりたいことがあるの」

エルヴァンが顔を上げ、眼鏡の奥で目を細める。

「何か、あったのか?」

少しだけ迷って、微笑んだ。

「スーにね、会ったんだ。元気をもらったの。今度ゆっくり話すよ」

言葉の意味を深く問うことなく、両親はそっと頷く。

「朝ごはん、どうする?」

リゼットの問いに、にっと笑って答えた。

「パンだけ、もらってく。列車のなかで食べるよ」

葡萄パンを紙に包み、バッグに詰め、玄関へ向かう。

ドアノブに手をかけたとき、振り返って、もう一度両親の顔を見た。

「また、すぐ帰ってくるね。その時、ちゃんと話すから」

そう言い残して、急いで家を出た。

木製の扉が閉まる音が静かに響く。

残されたふたりは、目を合わせて、同時に肩をすくめた。

「……切り替えの早いところは、あなたにそっくりね」

リゼットが呆れたように笑う。

「いや、のめり込むと周りが見えなくなるところは、君にそっくりだと思うけど」

エルヴァンも苦笑しながらメガネを外した。

蒸気列車の汽笛が、朝の空気を切り裂く。

駅の窓口で急いでチケットを購入し、滑り込むようにして列車に乗り込んだ。

座席に身体を預けた瞬間、胸の奥からふつふつと熱が湧き上がってくる。

(帰りたい。はやく……描きたい)

あれほど足取り重く感じていたギルドへの帰路が、今はたまらなく待ち遠しい。

自宅に着くなり、すぐに仕事着へと着替え、スケッチブックを抱えて飛び出す。

向かう先は――ギルドにある、私の”彩の間”。

その足取りは、かつてないほどに軽かった。

フェルマーの執務室を訪れると、中では、いつものように几帳面に整えられた机の上で、彼が資料に目を通していた。

「……おや? セナ・ノルディ。

 まだ休暇中のはずじゃなかったか?」

穏やかな口調だったが、その瞳には、鋭い観察の光が宿っている。

「フェルマーさん、休暇は取りやめます。

……急ぎ仕事に取りかかりたいんです。彩の間の利用を、許可してもらえませんか?」

フェルマーは書類を机に置き、指先を組んで、じっと見つめてきた。

「心配なのは分かる。だが、戻るには早くないか?

 その様子だと、もう『見習いに戻りたい』とは言わないようだが」

それでも、一歩前に出て、深く頭を下げた。

「どうしても仕上げたい仕事があります。今あるイメージを、そのまま形にしたいんです。仕事でもあるけど、それ以上に、大事な……今しか描けない絵なので」

頭を上げ、真っ直ぐに向けられたその瞳に、フェルマーはわずかに目を見開いた。

先日見た、あの悲壮感を滲ませた表情は、もはや、そこにはない。

「……分かった、休暇は取り下げよう。彩の間の利用も許可するよ」

「ありがとうございます!」

頭を下げかけたその時、フェルマーは片手を上げて制した。

「ただし——条件がひとつある。

 《夜想曲は偽りを歌う》の案件は、君自身が責任をもって対応すること。

 受けた依頼は最後まで誠実に向き合う、それが“責任ある彩飾師”の仕事だ」

一人では、どうしても手が回らない。

ならどうすればいいか、もう答えは出ている。

「はい。わかっています」

きっぱりと答える様子に、フェルマーは満足げに頷いた。

「フェルマーさん、今日アリナは、アリナ・トゥレルはギルドに来ていますか?」

「ああ、アリナ・トゥレルなら、今日は来ているはずだよ」

「アリナに、依頼について助言をもらいたいのですが、構いませんか?」

フェルマーはふっと笑みを浮かべた。

「双方が相談の上で納得のいく方針が見つかるのなら、それが最善だ。

 何より君は、一人で何でも抱え込みがちだからね」

「……はい。ありがとうございます!」

丁寧に礼を述べ、フェルマーの部屋をあとにした。

スーと過ごした夜。あの景色と想いを絵に描く。

そのためなら、なんだってやってみせる。


フェルマーは閉じたドアをしばらく見つめたあと、小さく独りごちた。

「やれやれ……まったく、あんなに手のかかる弟子だったかな」

けれど、その声はどこか嬉しそうだった。

彩の間の長い回廊を抜け、一つの小さな扉の前で足を止めた。

ドアプレートには、柔らかな筆致で《アリナ・トゥレル》と記されている。

彩飾師としては先輩、けれど気さくに話せる友人でもある——

そんな彼女にこそ、今の自分は、頼みたいと思えた。

軽くノックをする。

「はーい、どうぞー!」

明るく間延びした声が返ってきた。

相変わらずの調子に、思わず笑みを浮かべながら扉を開ける。

陽の光がたっぷり差し込む室内。

色見本とスケッチが広がる作業机の前で、くるりと首を回して振り返ったのは

——アリナ・トゥレル。

長身の、すらりとした体型に、柔らかく波打つ淡い金色のミディアムロングヘア。

ラフなシャツワンピースに、エプロンや袖口には絵の具の痕が淡く残っている。

「おお、これはこれは。珍しいお客様だね!」

アリナは驚きとともに、いつもの気取らない笑顔を向けてきた。

ライラックグレーの瞳は、優しげな目元ながら、じっと見つめられると少しドキリとするような、不思議な存在感がある。

「どうしたの? セナが私の部屋に来るなんて、びっくりしたよ」

「……ちょっと、受けている依頼のことで相談したいことがあって」

「へぇ、依頼の相談?」

私が頷くと、アリナは目を輝かせた。

「もちろんいいよ、友の頼みだ。喜んで聞くさ!

 少し話す時間くらいあるよ。そこ、座って」

「ありがとう」

勧められるまま、小さな木製の丸椅子に腰を下ろし、スケッチブックを抱え直した。

ひとつ息を整え、静かに口を開く。

「実は、作家のナジュ・イルマという依頼主から《夜想曲は偽りを歌う》っていう新作小説の装飾依頼を受けててね。

下絵を提出したんだけど、差し替えの相談が来てるの。

今、他の案件も重なって手が回らなくなってさ。

少し、手を貸して欲してもらえないかな?」

その瞬間、アリナの目が見開かれる。

「……え、うそ。ナジュ・イルマって、小説家の?

《夜想曲は偽りを歌う》って新作の依頼受けてるの!?

いいなぁ、私、あの作家さん、ファンなの!」

大げさな仕草で胸を押さえるアリナに少し面食らいつつも、肩をすくめた。

「ええっと、できるなら共作という形で、初期デザインだけでも関わってもらえたらと思って。もちろん、アリナが忙しいなら無理は言わないよ」

アリナは目を潤ませながら大げさに答える、

「そんな……初期デザインだけなんて言わず、仕上げまで一緒にやりたいくらいだよ。

 他に仕事を抱えてなかったら、担当変更してほしいくらい。

 とにかく、ぜひやらせて! うわぁ、楽しみ!」

その姿を見て思わず吹き出すと、アリナも笑った。

「ありがとう、アリナ。本当に助かる」

笑い合うふたりの間に、温かな空気が流れていく。

——こうして、私の再出発は、新たな仲間とともに始まった。

いままで、人に迷惑をかけないようにと、ひとりでこなせなければ一人前じゃないと、そう思い込んで何でも抱え込んできた。

でも、こんなふうに頼ってもいいんだ。

誰かと手を取り合って、もっと素晴らしい世界を生み出していくことだって、きっとできる。

スーは、そのことも教えてくれた。

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