第七章 君と描く蒼い月夜

二人は静かに実家へ戻った。

庭のベンチは、かつてスーが日向ぼっこをするのが、お気に入りだった場所。

今は満月の光がやさしく庭を照らしている。

青白く揺れる木々の葉、蒼い光をまとうゼラニウムの花々。

二人は並んでベンチに腰を下ろし、私は空を見上げた。

スーと過ごす時間は、あまりにも穏やかで、幸せで——

だからこそ現実へ戻ることが、終わりが近づくのが、とても怖いと感じる。

表情を曇らせる様子に気づいたスーが、心配そうに顔をのぞき込んできた。

「……ねえ。膝枕、してあげよっか?」

私は小さく笑って頷いた。

「……うん。お願い」

ベンチに横たわると、スーの小さな膝に頭を乗せた。

白い髪がさらさらと頬に触れ、ほのかなぬくもりが心に沁みる。

「このままずっと、スーと一緒にいたい」

声が、かすかに震えていた。

「元の世界じゃ、うまくいかないことばっかりで……

 まわりに迷惑かけてさ。もう、どうしていいか分かんなくなってる」

スーは黙って、言葉に耳を傾けていた。

「好きだった絵も、最近は、描くのが、こわくなっちゃった。

 描けば描くほど、自分のダメなところばっかりが見えてくるみたいで」

声は掠れ、涙の気配がにじむ。

本当は、こんなことスーに言いたくなかった。心配をかけたくなかった。
でも、こぼれ出てしまう。

「……そっかぁ」

スーは静かに呟いたあと、しばらくの間、何も言わずに私の髪を撫でていた。

「絵を描くの、好きだったもんね。わたしの絵も描いてくれたことあったよ。

 ……最初は、なにが描いてあるのかわかんなかったけど」

そう思い出すように言って、クスッと笑った。

「……ごめんね。難しいことは、よくわかんない。でもね」

夜空を見上げながら、やさしく言葉を紡いだ。

「セナの世界は、こんなにキレイで素敵なんだよ。

 なのに描かないなんて、もったいないと思うけどなぁ」

「え……?」

「だって、見てよ」

私は顔を上げ、まわりを見渡した。

そこには、幻想の庭と蒼い満月の光が広がっている。

(そうだ……ここは、『思い出づる国』。わたしの願いが形になった世界)

勢いよく起き上がり、辺りの景色を見回す。

視界いっぱいに広がる夢のような光景。

ここに来たとき、不思議と既視感があったのは、ただ故郷の土地だったからじゃない。

この町も、この空も、この色も——

自分の心の中にあった景色が、まるごと世界になったんだ。

スーは、不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの、急に?」

その仕草に、思わず笑みをこぼした。

「これは、わたしが描いた世界…… ううん、違う」

そう、違う。この世界は、わたしだけが描いた世界じゃない。

スーの手を取り、しっかりと握った。

「これは、わたしたちの世界だよ。だから、こんなにきれいなんだ」

胸の奥から、自然に言葉がこぼれた。

この景色が美しく映るのは、私が“スーと過ごした日々”を、心の底から愛おしんできたから――。

笑い合った時間も、泣きそうになった夜も、そのすべての想いが、この世界に色を与え、温もりを灯してくれている。

ふと、初めてスーの絵を描いた日の衝動がよみがえった。

たまらなく愛しくて、どうしても、この手で彼女を残したいと願った。

私が絵を描く理由は、あふれる想いを色と形に変え、誰かの心へ届けるため。

そして、そのきっかけをくれたのは――間違いなく、スーだ。

「私が絵を描くことを好きになれたのは、スーのおかげだよ」

ふっと笑って、言葉を続ける。

「だから、負担に思ったことなんて、ないんだから」

スーは息を呑み、何かを探すように私の顔をじっと見つめてくる。

「……ほんとに?」

震えるような声。

私は小さくうなずき、まっすぐ視線を返す。

「ほんとだよ。スーの全部が、大切だった」

しばしの沈黙。

やがて、スーの瞳に光が滲み、息を詰めたまま小さく笑った。

「そうなんだ……。そうだと、うれしい……」

その笑みは、長いあいだ胸の奥に閉じ込めていた不安を、ようやく手放せたようにやわらかかった。

その時——

握っていたはずのスーの手が、ふっと、手の中から抜け落ちた。

「あれ……?」

私は思わず手を伸ばした。

けれど、そこにはもう、触れられる温もりはない。

空を見上げると、蒼く輝いていた満月は、もう山の向こうへ沈みかけていた。

——別れのときだ。

まだ、言いたいこと、伝えたいことがあったのに。

それでも、時間は待ってくれない。

目の前にいるはずのスーの姿が、少しずつ遠のいていく。

「セナ……」

スーも困惑した様子で必死に手を伸ばしているが、互いの手は無常にも触れられない。

「スーっ!」

駆け出した――が、足は地を踏みしめる感覚を失い、空を掴むように進まない。

「スー! 待って! まだ……まだ大事なこと、言ってない!」

一瞬の静寂。

胸が締め付けられ、喉が固まって、言葉がうまく出てこない。

「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう!」

振り絞った声が響き、涙でにじむ視界の中で、スーの瞳が揺れる。

「……最後に会えなくて、ごめんね」

涙に震えた、その声に応えるように、スーは瞳に大粒の涙をたたえながら——

それでも、優しく微笑んだ。

「わたしも、セナと一緒にいられて、本当によかった。

 たくさん愛してくれて……幸せだったよ!」

頬を伝う涙は、光の粒となって空へ舞い上がっていく。

けれど、二人の顔には、笑顔が浮かんでいた。

ずっと言葉にできなかった想い。

最後に伝えたかった後悔と感謝。

それらすべてが、確かに二人の心に届いた。

離れていく距離は、もう止められない。

でも、もう、寂しくはなかった。

「バイバイ、セナ。——だいすき!」

「私も。だいすきだよ、スー!」

光が消える直前、最後の一瞬——

スーはやさしい微笑みのまま、月光に洗われるように消えていった。

町の色も空の光も、静かに幕を下ろしていく。

そして、すべてが静まり返った。

気づけば、自室のベッドの上に、ぽつりとひとりで座っていた。

窓の外には、もう満月はなかった。

けれど——

頬には、確かに温かい涙の跡が残っていた。

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