第五章 思い出づる国

……誰かが、私を呼んでる?

優しく、耳の奥に響く声。

どこかで、ずっと前に聞いたことがあるような――

懐かしさに胸を掻きむしられるような声だった。

(誰なの……?)

寝ぼけた頭が、その問いに答えを出す前に、声はだんだんとはっきりしてくる。

「……セナ、セナ、ねぇ起きて!」

少女の声――それは確かに、私の名前を呼んでいた。

はっと目を開け、跳ね起きる。

心臓が強く打ち、息が詰まる。

寝ぼけた意識がようやく現実へ戻ろうとしたとき、すぐ隣に――

見知らぬ、小さな女の子がちょこんと座っていた。

年のころは十にも満たないくらい。

雪のように白い髪をツインテールに結い、

透きとおる碧い瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。

その顔立ちにも、服装にも、どこか既視感があった。

赤いチェック柄のワンピースに、裾のレース。

――あれは、幼い頃に私がいちばん好きだった服。

「すごいすごい! 本当にセナだ!」

少女ははしゃぐように言うと、勢いよくこちらへ飛びついてきた。

「ちょ、ちょっと……ごめんなさい、あなた誰なの?」

あまりに突然のことに、私は言葉を探しながら、肩をそっと押し離そうとする。

すると、少女はぱちりと瞬きして、にっこりと笑った。

「わたし、スーだよ。……猫のスー。いま、ひとになってるみたい。

どんな姿か、自分では見えないけど」

(……スー?)

その名前が唇に触れた瞬間、胸の奥がかすかに震えた。

「スーって、あの……白猫のスー? 本当に?」

私は混乱したまま、少女の顔を見つめる。

どこか現実感のない、淡い光に満ちた空間。

ここは、私の部屋のはず。でも、何かが違う。

壁も、床も、天井も。すべてが夜の帳のなかで、かすかに光っている。

カーテン越しに差し込むのは、月の蒼い光。

まるで、夢と現が交わる境界のような、幻想的な空間だった。

(まさか……でも、本当に――)

私は改めて、少女の姿をじっと見つめた。

その髪型も、ワンピースの模様も、懐かしすぎて涙が出そうになる。

首元ある、小さな黒いリボン。それは、私が昔スーに迷子にならないようにと、つけたことのある飾りに、そっくりだった。

少女は、きょとんとした様子で小首をかしげて、こちらを見返した。

見た目は違うけど、昔スーが首をかしげて不思議そうにこちらを見返すしぐさと重なる。

(この首を傾けるしぐさ……)

「……スー、本当に、スーなのね!」

私は胸の奥から込み上げてくる感情に耐えきれず、少女の体を強く抱きしめた。

白い髪が頬に触れる。細くて軽い肩。

だけど確かに、そこに「スー」がいる――。

「会いたかった……ずっと、会いたかったよ……」

私はそうつぶやきながら、腕のなかのぬくもりに、ただただ震えた。

少女――スーは、そっと背中に手を回して、くすくすと笑った。

「わたしも。ずっと、会いたかった」

少し身体を離し、お互いの姿を確認する。

改めて見ても、髪と瞳の色以外は、幼い頃の私と同じ姿をしている。

「今のスーは、小さい頃の私とそっくりな姿をしてるよ」

その言葉に、少女は満面の笑みを浮かべる。

白くやわらかな髪がふわりと揺れて、澄んだ碧い瞳が真っすぐ見返す。

「セナと一緒? 嬉しい!

 ずっと会いたいって、思ってたからかな?

 会いたかったんだよ、ずっと……ずっーと、ね」

その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

生前のスーが、言葉にできないまま伝えたかった想いが、今こうして言葉になって届いている。

「だから……たくさん話したい。たくさん、そばにいたい」

スーは無邪気な笑顔で、恥ずかしげに指を絡めるようにして、私の手を取った。

見た目は幼い頃の自分――でも、中身は確かにあのスーのようだった。

少し戸惑いながらも、その小さな手のぬくもりを確かめるように握り返す。

「……うん、私も。こんなこと、信じられないけど……でももう、疑いようがないよね」

思わず笑いながら、頬に落ちた涙をそっと指で拭った。

「ねえ、外に行こうよ!」

スーが突然、ぱっと顔を輝かせて言った。

「……外?」

「うん、ねぇ行こう。早く!」

そう言うなり、スーは私の手を引いて立ち上がり、部屋の窓辺へと駆け寄る。

「ちょっと待って、玄関からじゃなくて?」

「こっちのほうが早いもん!」

そう言って、迷いもなく窓を開けたスーは、そのまま月光の下へ飛び出した。

「スーっ!?」

思わず叫びかけたその瞬間――

スーは、まるで羽が生えたかのように、ふわりと宙に浮かび、舞い降りるように降りていった。

私の手は、まだスーの手とつながっている。

そのまま引かれるように、一緒に窓から身を投げ出した。

(落ちる……!)

と思ったのは一瞬だけ。

重力の感覚が、まるで別の世界のものになったかのように、ふたりの体はゆっくりと空気を滑り降り、やわらかな足取りで地面へと降り立った。

「……え……?」

私は驚いて視線を上げ、そして言葉を失った。

そこに広がっていたのは――確かに、見慣れた故郷の町。

けれどそれは、かつて一度も見たことのないほど神秘的で、美しい世界だった。

空には蒼い満月が燦然と輝き、凍てつく夜の帳が降りるはずなのに、まるで朝焼けの光を閉じ込めたかのように、鮮やかな色彩に満ちている。

レンガ造りの家々は月光に照らされ、普段は地味に見える煉瓦の一つ一つが、月の魔法にかかったかのように光を宿し、複雑な模様を浮かび上がらせる。

窓は月光を映す鏡のように蒼く光り、窓辺に並ぶゼラニウムの鉢は、映して淡くきらめき、まるで命を得たかのようにそよいでいた。

路傍の花々は青、紫、水色へと色を変え、夜風にそっと揺れながら、まるで月のダンスを舞っているようだ。

気づけば、いつの間にか私の衣服は、彩飾師で働く時の服装になっている。

寒さもまったく感じなかった。

「これが……思い出づる国」

そう呆然とつぶやいた。

この景色は、まるで夢のなか。

でも故郷の町だからか、どこか既視感もある。

いや、夢だとしても、こんなにも鮮やかに心を震わせる夢があるだろうか。

遠くへ目をやると、彼方には雪を頂いた山々が、蒼く輝く稜線を描き、その上空には、淡いオーロラがゆらめいていた。緑と紫が混ざり合う光のカーテンが、静かに、優しく、夜空を彩っている。

「……すごい……キレイ」

思わず声に出すと、スーはにっこり笑って、手を引いた。

「行こう、セナ。歩こう、いっぱい!」

「うん……」

もう何も言えなかった。

ただ、目の前の不思議な少女と手をつなぎながら、懐かしくて初めて見る町のなかを歩き出す。

その手のぬくもりだけは、確かに本物だった。

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