第六章 後悔の欠片

フルールと再会した夜。
寝室の天蓋の布目を数えても、ひとかけらの眠りも降りてこない。

恐ろしい。

”後悔のない人生”など、何の希望もなく生きるのと同じ。そんな大事なことに、今頃気づくなんて……。

このままでは、本当に“人形”のようになる

――社交界に立ち、称賛を浴び、将来の夫の愛を受けながら、何も感じない人形に。

そんな人生に、いったい何の意味があるのか。

(嫌。そんなの、絶対に嫌!)

胸の奥でかすかに残っている“後悔”を、最後の火種のように両手で庇い、身を起こした。

行き先はひとつ――フェリシティの店。

取り戻すしかない。返さないというなら、ーー奪ってでも。

東雲のころ、エドワードに「王都へ行く」とだけ告げ、支度を命じた。

このことは誰にも知られてはならない。

実行するのは、わたし一人。

王都に入ると、南の市街で馬車を降り、「知人に会う」と告げて従者を退けた。
以前訪れた時と同じ、古時計塔を過ぎ、三つ目の路地へ。

昼なお薄暗い石畳は湿り、腐った果物と雨水の匂いが靴先から這い上がってくる。
――古びた木造の小さな建物。白いカーテンに覆われた窓。

初めて訪れたあの日と同じ姿で、その店はそこにあった。

扉を押すと、澄んだ鈴の音が響く。

そして――。

「あら、いらっしゃい。レティシア」

机の向こう、雪のような白髪、底なしの黒い瞳。

フェリシティは、まるでわたしを待っていたかのように微笑んだ。

「今日はどんなご用かしら? 追加の願いなら、大歓迎よ」

「追加の願い、ですって? 冗談じゃないわ!」

声が跳ねる。

「フルールから聞いたわ。すべて、あなたの仕業だったんでしょう、フェリシティ!」

フェリシティは愉快そうに目を細めた。

「……フルール、あなたに話したのね。まったく、契約なんて交わしても、すぐ口を滑らせる」

「こんな契約、不当よ! わたしから全部奪っておきながら、よくも平然と――最初から仕組んでいたんじゃないの?」

「確かに、フルールの願いを叶えてあげたわ。けれど、わたしが手を下さなくても遅かれ早かれ、あなたは破滅していたはずよ。自分でもわかっているでしょう?」

喉が乾く。確かに、父と兄の不正は取り繕いようがなかった。

「それに、願いは叶えてあげたわ。何が不満なのかしら? まさか、いまさら”対価”が惜しくなった、なんて言わないわよね?」

「あの時は、こんな風になるなんて思わなかったのよ! 願いが叶っても、何も感じなければ意味がないじゃない!」

もし分かっていたなら――“後悔のない生”など願わなかったかもしれない。

貴族でない生を選んだ可能性だって、ゼロではなかった。

「わたしから奪った”後悔”を、返しなさい!」

胸が灼ける。残された“後悔”が怒りに姿を変え、喉を突き破ろうとするほど叫んだ。

フェリシティはそれを眺め、喉の奥で笑った。

「あっははは! レティシア、あなたって本当に面白い。ーーとっても滑稽だわ」

「……何ですって?」

「自分で『必要ない』と言ったくせに、いまはその僅かな”後悔”に縋りつくなんて。

ねえ、あなた前に言ってたでしょう? 『平民のように地べたを這いずる生き方はごめん』って。それと、どれほど違うのかしら?」

「黙りなさい! 問答はもう結構。 返せと言っているのが聞こえないの!?」

「無理な相談ね。契約書にもそうあったでしょう。もちろんーー残りも近いうちにいただくわ」

甘やかな声が、冷たい刃のように耳朶を切る。

もう、やるしかない。

「……なら、殺してでも取り戻す。死ねば、これ以上奪えないでしょう」

そう言ってドレスの裾に隠していた短剣を抜き、震える両手で構えた。

「まあ」

恐れの色は微塵もない。

それどころか、両手を広げ、まるで抱擁を乞うように胸を差し出してくる。

「いいわよ。その覚悟があるなら――やってごらんなさい」

心臓が破裂しそうに暴れた。

「脅しじゃ、ないわよ」

「ええ。もし殺せたら、奪われないかもね」

掌に力を込め、歯を食いしばる。

(殺す、殺さなければ、奪われる)

「うわぁぁぁぁぁっ!」

両手で短剣を握り、歯を食いしばって、両手で短剣をフェリシティの胸に突き立てた。

「なっ!?」

肉を断つ感触はなく、硬く冷たい、蠟の塊のような抵抗が手首に鈍く返ってくる。

思わず短剣から手を離し、距離をとった。

フェリシティは苦悶の一つも見せず、胸に突き立ったままの短剣を興味深そうに眺めている。

「残念。これじゃ私は殺せないわ」

笑みを浮かべながら、胸に刺さった刃をすっと引き抜く。
布地にぽっかりと穴が空いているのに、血は一滴も滲まない。

「あなた……一体、何なの……?」

「さあ? 何かしらね」

艶やかに唇が吊り上がる。

その笑みは、まるで愉悦と好奇の化身。

恐怖が、足元から這い上がってくる。

「でも、はっきりしていることがあるわ。

 あなたはもう、契約を破れない。逃げることも、できない」

そう言うとフェリシティの瞳全体が漆黒に染まっていき、底の見えない黒へと深く沈む。

同時に、周囲に冷たい風が巻き起こった。

禍々しいその姿に、声にならない叫びが喉で崩れ、全身が震える。

「残りの”後悔”をいただくわね。レティシア」

(いや……まだ、終わってない! 終わらせたくない!)

そう念じた意志さえ、冷たい霧に包まれて薄れていく。

フェリシティは短剣を机に置き、優雅に一礼した。

「もう会うことはないでしょう。――さようなら、“元”お客様」

その声が耳の奥で鈴のように鳴った瞬間、視界が暗転した。

目を開けると、南区の路地に立っていた。
店のあった場所には、瓦礫が積まれた廃屋めいた建物がぽつんと残るばかり。

夢……? いいえ、違う。
胸に絡みつく虚ろさは、たしかにここにある。

最後に残っていた“後悔”のかけら――それさえ、もうどこにも見当たらなかった。

冷たい虚無だけが、わたしの内側を、隅々まで満たしていた。

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