婚約が決まった報せが王都を駆け巡り、レティシア・ヴァルフォールの名は再び社交界の華として囁かれるようになった。
けれど――その呼び声も、もはや胸を熱くはしない。
日を追うごとに、父を責めた夜も、兄を憎んだ瞬間も、母に裏切られた痛みも――思い返そうとすればするほど、輪郭が霞んでいく。
悔しさや痛みが消えていくのと同時に、未来への欲も、情熱も、手応えも、霧の中へと溶けていった。
鏡に映る自分の瞳は、以前よりも冷たく虚ろで、どこか人形めいている。
薄れゆく”後悔”と一緒に、少しずつ人間らしさを失っていくような気がしてならない。
その虚ろな瞳の奥で、かすかな声が囁いた。
(少し前まで、これほどの影響はなかった…… これが、“後悔”を失うということなの?)
答えはどこにもない。
まだ微かに、過去を憂う“後悔”は残っている。
だが――もし、それすら完全に失ってしまったら?
想像した瞬間、背筋を氷が這った。
*
そんな折、一通の手紙が届いた。
差出人は、フルール・クレマンス。
『以前お渡しした指輪の件で、ぜひお会いしたく思います。どうかお時間をいただけませんか』
文面を目にしたとき、胸にざらつくものが走った。
没落していた頃、フェリシティの存在を教えてきたあの令嬢。
彼女もまた、契約者だったはず――。
(フルールも願いを叶えてもらったと言っていた。ならば、彼女も“対価”について何か知っているはず……)
何を差し出し、どんな願いを叶えられたのか。
その真実を聞き出せれば、この胸を侵す空虚の正体に手が届くかもしれない。
指輪を返すという口実もある。
けれど本当の目的はただ一つ――。
(知りたい。フェリシティの“対価”が、わたしから何を奪おうとしているのかを)
迷いなく返書をしたため、面会の場を設けることにした。
*
待ち合わせの場所に選ばれたのは、王都の片隅にある喫茶室だった。
昼下がりの光がガラス越しに差し込み、磨き上げられたテーブルを柔らかく照らしている。
軽やかな弦の音楽が流れる店内で、フルール・クレマンスはすでに席についていた。
栗色の髪をきちんと結い上げ、琥珀色の瞳でまっすぐにこちらを見据える。
相変わらず整った容姿をしていて、纏う気配には落ち着きと艶がある。
わたしとは異なる華やかさを持ち、ひと目で人々を惹きつけるだろう。
もし社交界の場で並び立っていたら、どちらがより多くの視線を集めるだろうか。
「ごきげんよう、レティシア様。今はヴァルフォール伯爵とお呼びすべきかしら」
その笑みには妙な確信めいたものが宿っていた。
「いいえ、レティシアで構わないわ」
軽く微笑んで応じた。
席につき、取り出した小箱を机に置く。
「これをお返しするわ。以前、あなたから預かった指輪。ずっとお返しする機会を探していたの」
フルールは小箱を見つめ、唇の端をゆるめた。
「まあ……律儀なのですね。また忘れられているかと思いました」
「忘れてなんかいないわ。本当に機会がなかっただけよ。
――今日は、少し聞きたいことがあるのだけど」
声を落とし、彼女の瞳に視線を絡めた。
「フルール。あなたも“フェリシティ”と契約を交わしたのでしょう? 願いを叶える代わりに、何かを差し出したはずよね」
彼女はカップを指先でなぞり、しばし沈黙した。
やがて、囁くように言った。
「……やはりあなたも、あの店で契約を交わしたのね」
「教えて。あなたは何を対価として差し出したの?」
フルールは視線を宙に漂わせ、遠い記憶を確かめるように微笑んだ。
「私が願ったのは――“レティシア・ヴァルフォールの不幸”よ」
それを聞いて言葉を失い、胸の奥で鈍い痛みが広がった。
わたしの不幸、ですって?
「どういうこと? まさか、ヴァルフォール家が没落したのは、あなたが……」
「さあ、どうかしら? ”不幸にして”と願ったけど、その手段のことは何も話してなかったもの」
彼女は続ける。
「対価として差し出したのは、”それ以外の興味”よ。だから今の私には、あなたの不幸以外、何も心を動かすものはないの。
食事も、音楽も、自分の幸せさえ、どうでもいい。あなたの不幸な行く末を見届けることだけが、わたしを生かしている」
フルールの琥珀の瞳が、狂気じみた光を帯びる。
「あなたも感じているでしょう? 少しずつ、何かが削られていくのを」
胸の内がひやりと冷えた。
「……まさか、わたしのことも知っているの?」
「あなたの”願い”は予想がつくけれど、何を”対価”にしたのかは知らないわ。でも、相応の”感情”を要求されたでしょう? 対価となる代償は、じわじわと削られていくの。ある日突然消えるのではなく、気づかぬうちに、少しずつ、確実に。
いずれあなたも、感じなくなるわ」
愉悦に満ちた声音で囁く彼女の姿に、背筋を冷たい汗が伝った
「わたしの不幸を願ったと言ったわね。一体、わたしがあなたに何をしたっていうのよ?」
フルールはカップに口をつけ、しばし黙したのち、唐突に切り出した。
「覚えていないでしょうね。あの夜の舞踏会で、辱めを受けた夜のこと。
あなたに転ばされ、母と一緒に選んだドレスを汚され、皆に無視された――その日を境に、社交界では誰からも相手にされなくなったわ。事実上の追放よ。笑いものになって、婚約者にも見限られ……すべて失った」
その話を聞いて、眉をわずかにひそめる。
思い出した。――あの夜会で、取り巻きたちと共に“遊び相手”にして笑いものにした、名も知らぬ男爵令嬢。
あれが、フルールだったのか。
あのときは流行遅れのドレスを身にまとい、場違いなほど野暮ったく見えた。
それが今ではどうだ。容姿だけでなく立ち居振る舞いまで洗練され、社交界の中央に立っても遜色ないほどに磨き上げられている。
「……あの頃とはまるで別人ね。気付かないはずよ。
あの時のことなんて、些細な戯れじゃない。これほどの仕打ちを受ける筋合いはないわ」
「戯れ?」
フルールの微笑がひび割れ、低い笑声が漏れた。
「その“戯れ”で、こっちは人生を狂わされたのよ。一方的に辱めを受けたのに、両親も何も言えなかった。屈辱で頭がどうにかなりそうだったわ。だから願ったのよ、“レティシア・ヴァルフォールの不幸”を」
フルールは自分のことを話しているはずなのに、淡々としてどこか他人事のような口調だ。
たぶん、わたし以上に“興味”を削られているのだろう。自分自身への興味すらも。
「でも、不思議なものね。あなたの不幸以外に興味は持てないけれど、親近感も覚えるの。だから同じ気持ちを味わって欲しくて、フェリシティを紹介したのよ。
どう、すべてを手に入れておきながら、何も感じなくなっていくのは。どんな気分かしら?」
愉快そうに問いかける声に、指先が震える。
以前のわたしなら、怒りの感情のままに言い返し、報復の手段を考えたかもしれない。
だが今は、どうやって怒りを覚えていたのか、なぜ報復など考える必要があるのか、それすら分からなくなっている。それが、たまらなく恐ろしい。
必死に声を整え、フルールの目を捉える。
「フェリシティとの契約を、破棄する方法はないの?」
「そんなの知っていたら、とっくにやっているわ。諦めることね」
彼女は愉しげに笑い、テーブルに肘をついて囁いた。
「最後にあなたはどうなるのかしら? もしかしたら、“完璧な人形”になるかもしれないわ。美しい、生きた人形。さぞ多くの人から愛されるでしょうね」
背筋に寒気が走った。確かに、最近の自分は喜びを覚えられない。
婚約という一大事すら、ただ筋書き通りに頷いただけだった。
これ以上、フルールと話してもムダだ。彼女の話が本当なら、彼女はわたしを不幸にすることにしか興味を持っていないのだから。
「――もう十分よ。教えてくれて、感謝するわ」
フルールは何も言わず、ただ微笑んだ。
その微笑みは慈愛のようでいて、復讐の炎のようでもあった。
席を立ち、外の光の中へ踏み出す。
その時、フルールが後ろから声をかけてきた。
「わたしと同じ世界へようこそ、レティシア。歓迎するわ」
その声を無視し、店の外へ出た。
まぶしさの中で、胸の奥に冷たい空虚がひときわ広がるのを感じる。
……このままでは、本当にただの人形のようになってしまう。何か方法を探さなくては。
しかし、その焦りすら、どこか遠く、薄れていくようだった。
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