第三章 願いを売る店

南の市街地、古時計塔を通り過ぎる。

路地に入ると、昼なお薄暗く、湿った石畳に靴音が吸い込まれ、腐敗した果物と雨水の匂いが鼻を突く。
こんな不愉快な場所を歩いている――それ自体が屈辱だ。

けれど、フルール――名も知らぬあの男爵令嬢の言葉が、頭から離れない。

『願いを叶える店がある』

胡散臭い話だと笑い飛ばすところだが、彼女が渡した指輪の重みは嘘ではない。
その指輪を握りしめながら、指定された場所まで歩いていた。

古時計塔から数えて三つ目の路地を曲がった先、その建物はあった。

窓が白いカーテンで覆われた、古びた木造の小さな店。入口に下がっている木の看板には『あなたの願い、叶えます』と書かれており、軒先には来客を知らせる小さな鈴が掛かっていた。

胸がどくりと高鳴った。

扉を押すと、鈴の音が澄んだ声のように響き、冷たい空気が流れ込んでくる。

中は薄暗く、外よりも静かだった。

棚には古びた本がずらりと並び、用途の知れぬ小物が整然と並んでいる。

埃は見当たらないのに、奇妙に人の匂いがしない。

空気は冷たく乾いていて、時が止まったようだった。

その奥に、一人の少女が座っている。

本を読んでいたらしく、こちらに気づくとパタンと本を閉じ、顔を上げた。

雪のように白い髪、黒曜石のような瞳。

幼い容姿だが、年齢も、立場も、まるで読めない。

ただ、その瞳の奥は底知れぬ深淵を湛えていた。

「あら、いらっしゃい」


少女は柔らかく微笑んだ。

「わたしはフェリシティ。ここはお客様の願いを叶える店よ。どんな願いをお望み?」

その口ぶりは、年齢不詳の古風さと子供の無邪気さが奇妙に入り混じっていた。

息を呑み、顎を高く上げて答えた。

「レティシア・ヴァルフォールよ。フルール・クレマンスという人から、ここを紹介されたわ。

……どんな願いも叶えるという話は、本当なの?」

「……紹介、ね」

フェリシティは顎に指を当て、思案するように目を細めた。

「ええ、覚えているわ。本当なら、この店のことは口外してはいけない契約なのだけど――」

そして、ふいに微笑んだ。

「まあ、あなたの場合は特別に許しましょう。レティシア、とお呼びしてもいいかしら?」

「構わないわ」

「ではレティシア。叶えられる願いは、差し出せる対価によって決まるのよ」

「対価?」

そう聞いて思わず眉をひそめる。懐にあるのは銅貨数枚と、フルールから預かった指輪だけだ。

「……お金なら、ほとんど残っていないわよ」

フェリシティは喉をころがすように笑った。

「お金なんて興味はないわ。欲しいのは――あなたの人生の一部よ」

「人生の一部? 何よそれ。何を差し出せばいいの?」

「まずは願いを聞かせて。そのうえで相応しい対価を決めましょう」

一呼吸おき、願いを告げる。

「わたしを……貴族だった頃のわたしに戻しなさい」


フェリシティは「へえ」と声を上げ、愉しげに目を細める。

「詳しく聞かせて。どうぞ、椅子にかけてちょうだい」

椅子に腰を下ろし、フェリシティに語った。
伯爵令嬢としての栄光の日々。舞踏会での称賛。
そして、父の失脚、兄の放蕩、母の逃亡。残された孤独。

わたしは生まれながらの貴族。貴族としてあらねばならない、と。

「ふぅん。状況はわかったわ。ならレティシアは、散り散りになった家族と共にヴァルフォール家を再興させたい、ということ?」

「あの家族と? いいえ、まさか!」

吐き捨てるように声が出た。

「浅知恵で墓穴を掘った父や、欲に溺れた能無しの兄が戻ったところで、同じことの繰り返しよ。家を捨てた母なんて論外だわ」

伯爵家という名に胡座をかいた結果が、あの没落を招いた。

結局、ヴァルフォールの名に値する貴族は、わたしひとりだけだったということだ。

「ヴァルフォールの貴族として返り咲くのは、わたしだけでいい。他の者は不要よ」

「つまり、レティシアだけヴァルフォール家の伯爵貴族として再興する、というのが願い?」

「そうよ。ただ女だけだと甘く見られるから、後ろ盾となる高位貴族がいてくれたら理想的ね」

フェリシティの瞳が細く弧を描く。

「ふふっ、おもしろい願いね。裕福になるだけなら他にも方法はあるでしょうに。それでも貴族に戻りたいの?」

「わたしは生まれながらの貴族よ。平民のように地べたを這う生活は嫌なの。もし貴族に戻ったなら、もう二度と後悔するようなことはしないわ」

フェリシティは静かに頷き、唇に微笑を浮かべた。

「なるほど、よくわかったわ。――では、対価の話をしましょうか」

”対価”、そう聞いて少し身構えた。没落した貴族が再興するというだけでも夢物語のような話だ。

もしそれを叶えるというのなら、引き換えに何を要求されるのだろう。

「対価として――あなたの“後悔”をいただいてもいいかしら。もう必要ないのでしょう?」

「”後悔”、ですって?」

思わず笑ってしまった。

「そんなものが対価になるの? それでよいなら、どうぞ差し上げるわ。どうせ最初から必要なかったもの」

フェリシティの瞳が怪しく光り、楽しげに目を細める。

「そう、なら契約成立よ。その願い、叶えてあげるわ」

引き出しから古びた羊皮紙が取り出され、机の上に置かれた。

そこには三つの条項が簡潔に記されている。

1.店の場所を他人に教えてはならない

2.願いの内容を誰にも漏らしてはならない

3.対価の返却を望んではならない

「契約の証として、こちらにサインしていただける?」

「……ずいぶんと簡単な契約ね。これを破ったら、どうなるの?」

「あまり噂が広まりすぎるのは面倒なのよ。店を移さないといけなくなるから。

 ただし、三つ目は単純よ。返却が不可能なだけ」

フェリシティの声が妙に心地よく耳に残る。

ためらいもなく署名し、羊皮紙を差し出した。

――チリン。

風もないのに、鈴が鳴った。

その瞬間、胸の奥を冷たい刃でなぞられたような感覚が走った。

何かを剥ぎ取られたのか、言葉にできない虚ろが一瞬、心臓を掴んで離れた。

「これで、あなたの望んだものはすぐに訪れるでしょう」

フェリシティは変わらず微笑んでいた。

けれどその微笑みの奥に、愉悦とも冷笑ともつかぬ影がちらりと揺れた気がした。

「これで終わり? どうやって願いを叶えるの?」

「レティシアの周りにある”流れ”を、あなたの望み通りになるよう変えていくの。

 細かいことは秘密。まあ、おとぎ話にある魔法のようなものだと思ってくれたらいいわ。

 貴族に戻るくらいのささいな願いなら、造作もないことよ」

フェリシティは変わらず微笑んでいた。

「その言葉、忘れないでよ」

フェリシティが浮かべる微笑みを見返し、誇り高く背筋を伸ばした。

“後悔”などという無用なものを差し出した代わりに ――再び”西方の薔薇”として咲き誇ってみせる。

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