第一章 没落した伯爵令嬢

王都リュセールの裏通りにある安宿。

煤けた天井、ひび割れた壁、湿った布で覆われた窓。

ここが、わたしの寝床だなんて――馬鹿げている。

ヴァルフォール伯爵家の令嬢であったわたしが、家畜小屋も同然の場所で眠り、目を覚ますなんて。
木枠に掛かる粗末なカーテンを見るたび、吐き気がした。

ベッド下の小箱の中には、まだ宝飾品が数点残っている。

耳飾り、指輪、銀細工の髪飾り――かつて舞踏会で人々を魅了した証。

それらをひとつずつ切り売りし、辛うじて飲食には困っていない。

だが、そう長くは持たないだろう。

胸の奥では、怒りと後悔が渦を巻いていた。

――父の不正を見抜けなかった。

――兄の放蕩を止めなかった。

――母の「生まれながらにして貴族」という言葉を信じた。

格上の貴族を敬っていた反面、格下を愚弄し、平民を人とも思わなかった。

その積み重ねが没落を早めたのだろうか。

だが何度思い返しても、答えは出ない。

けれど――もしやり直せるなら、二度と没落しないよう立ち回り、再び「西方の薔薇」として咲き誇ってみせるのに。

黒パンをかじり、冷たい水で流し込む。舌に刺が立ち、怒りが込み上げた。

(王都で高貴な令嬢だったわたしが、どうして平民と同じ物を食べなければならない!)

かつては視線を落とすだけで侍女が震え、男たちは恍惚とした。

それが今では、帳場の男に値踏みされ、宿の女主人に「働きもせず、いつまで代金が支払えるかね」と鼻で笑われる。

屈辱だ。もし平民に体を売るような真似をするくらいなら、その前に自ら命を絶つだろう。

没落した醜聞の噂が収まるのを待って、コネクションのあった貴族にコンタクトを取ろうと手紙を送ったが、今のところ誰からも返事はない。

先に光があると信じなければ、生きる意味がない。だが現実は残酷にも、微かな光すら見せてはくれなかった。

午後、空腹を抱えたまま街へ出る。王都は喧しく、果物も香水も、噂話も未来すらも売り物にされている。

視線を落とし、ドレスの裾を摘んだ。仕草だけは昔のまま、気高く。

角を曲がったその先に、日傘をさしたひとりの女が立っていた。

光沢のある布地を惜しみなく使った装いは、誰が見ても貴族とわかる華やかさを帯びている。

栗色の髪は片側に流れるようにまとめられ、琥珀色の瞳がまっすぐにわたしを捉えた。

整った笑みは、どこか皮肉を含んでいる。

「ごきげんよう、レティシア様」

「……どなた?」

「フルール・クレマンス。男爵家の娘です。――以前、少しだけご縁がありましたわ」

名を告げられても、記憶は曖昧だった。

どこかで見かけた気はする。かつての取り巻きの隅に紛れていたのかもしれない。

けれど――いま目の前にいる女は、記憶にあるどの顔よりも洗練されていた。

整った面立ちに、シックな装い。纏う空気には、かすかな妖艶ささえ漂っている。

ドレスで着飾れば、男たちの視線を独り占めするだろう。

(……これほどの容姿なら、覚えていてもおかしくなかったはず)

だが所詮は男爵家。わたしにとっては、取るに足らぬ存在だったのだろう。

「失礼ですが、覚えておりませんわ」

「ええ、そうでしょうね」

女は、唇の端をかすかに上げた。

「あなたがわたしを覚えているはずがありませんもの」

その声音には、確かな愉悦が混じっていた。

「けれど今のあなたを見て、声をかけずにいられませんでした。あの“西方の薔薇”がこんな裏通りを歩くなんて――おいたわしい」

胸がずきりと痛む。かつての誇りを抉る言葉。

この女も、私を嘲笑うつもりか。

「……用件は何?」

「お力になれるかもしれません。
 あなたが“薔薇”に戻る方法がある、といえば、興味はございますか?」

その響きは、抗いようもなく心を揺らした。しかし同時に、疑念が浮かぶ。

剥奪された爵位を元に戻すなど、一介の男爵令嬢ごときに手助けできるわけがない。

「どういうこと? 施しなら要らないわよ」

「もちろん、あなたは施しを受けないでしょう。だから、“紹介”をさせていただきたいのです」

「紹介……?」

「“願いを叶える店”。そこに行けば、わずかな対価で望みが叶えられます。貴族に戻ることもできるかもしれません」

思わず笑いが溢れた。

「どこのおとぎ話かしら? そんな子供じみた話を信じるとでも?」

「いいえ。あなたは今、昔話を現実にしたい年頃でしょう。実は私も願いを叶えてもらったんですよ。
おかげで今は、王都の社交界でも多少は融通が効く立場にあります」

フルールは淡く笑みを浮かべ続ける。

冗談を言っているような態度には見えないが、名前しか知らない人間の夢物語を鵜呑みにするなど、できるわけがない。

「何の証拠もないし、信用する理由がないわ」

「では信頼の証として、これを」

彼女は指にはめていた指輪を外し、差し出した。

「これは……家紋入りの指輪じゃない!」

紋章を刻んだ装飾品は家の権威そのもの。
正式な場で身分を証すために必須で、他人に渡すなど絶対にありえない。

煌めく白銀の輝きが、偽物ではないことを告げていた。

「指輪は願いが叶った暁に返していただければ。もし叶えられなかったら、売るなりしていただいて構いません」

言葉を失った。嘘にしては、指輪があまりに確かだ。

「どうして、そこまで?」

「言ったでしょう。あなたを見て、声をかけずにはいられなかったと。再起の道はあるのです」

「……どこへ行けばいいの」

「南区の市街地、古時計塔から数えて三つ目の路地を曲がった先。窓に白いカーテンが掛かった小さな建物です。あなたであれば、きっと見つけられます」

手のひらの上で指輪が冷たく輝く。
話が本当なら願ってもないことだが、たとえ嘘だったとしても、この指輪を資金にできる。

「選択はあなたにお任せします。また社交界で会えるのを、楽しみにしておりますわ」

そう告げて、フルールは市場の雑踏に消えていった。

その夜、安宿の薄汚れたベッドに横たわり、指輪を見つめていた。

荒唐無稽な話だ。あのフルール・クレマンスという令嬢、突然やってきて”願いを叶える店”があるなどと。馬鹿げている。

――だが、もし、本当なら?

いいでしょう。夢物語を信じてあげるわ。
どんな犠牲を払っても構わない。必ず、貴族に返り咲く。

それが、わたしの運命だから。

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