——誰にも、知られずに。
古びたカフェの片隅に、誰も気づかないまま、長い時を過ごしてきた存在があった。
それは、声も持たず、動くこともできず、ただ静かに世界を見つめ続ける“人形”。
けれど、もしその瞳に心があるのなら——
彼女は、ずっと待っていたのかもしれない。
誰かが、自分の前に立ち止まり、言葉をかけてくれる日を。
騒がしい日常のなかで、誰もが見落としていくその人形に、ある日、一人の少女が目を留めた。
それは、沈黙に宿る小さな奇跡の始まりだった。
第1話 銀髪の人形

カフェの片隅に、一体の人形が静かに置かれていた。
窓辺に置かれた銀色の髪は、夜の月光を受けてわずかに光り、深い青の瞳は静かな湖のように澄んでいる。
その繊細な造形は、まるで本当に命を宿しているかのようだった。
けれど、特別なのは見た目だけではない。
この人形には、確かに“感情のようなもの”が宿っている気がした。
動くことも、話すこともない。ただそこに佇みながら、目の前の人の“心の色”を感じ取っているようだった。
第2話 少女との出会い
ある日、ひとりの少女がカフェで働き始めた。
少女は孤独だった。
家族を失い、支えてくれる人もいないまま、ひとりで日々を過ごしていた。
忙しさに身を任せていれば、寂しさをごまかせる気がした。
そんなある日、ふと彼女の目が、人形に留まった。
月光のような髪、切なげな瞳――
その姿に、自然と足が止まる。
「……ずっと、ここにいるの?」
人形は何も答えない。
ただの飾り物だとわかっていても、少女は微笑んだ。
「あなた、不思議ね。まるで、生きてるみたい。」
少女はそっと人形の頬に触れた。
冷たい感触。それなのに、不思議と心が温かくなった。
第3話 言葉のない会話

それから少女は、毎日のように人形に話しかけるようになった。
返事はない。動きもしない。
けれど、人形の瞳は、まるで彼女の言葉を受け止めているようだった。
「あなたは強いね。ずっとそこにいて、何も言わないのに、私はあなたに救われてる気がする。」
少女は微笑み、そっと人形の髪を撫でた。
ひんやりとしたその感触の奥に、かすかな温もりがある気がした。
少女の優しい言葉が、少しずつ人形の“心”を溶かしていく。
それが“感情”と呼べるかはわからない。
けれど、少女が声をかけてくれない日は、胸の奥が少し痛むような気がした。
第4話 さよならの予感
ある日、少女がぽつりと呟いた。
「……もうすぐ、ここを辞めることになったの。」
その瞬間、人形の中に冷たい風が吹き抜けた気がした。
「あなたがいてくれたから、私はひとりじゃなかった。」
少女はそう言いながら、微笑みを浮かべ、そっと人形の頬に手を添えた。
その指先は、ほんの少し震えていた。
“行かないで”
人形の心が叫ぶ。
けれど、声を持たない人形にできることは何もない。
ただ見送ることしか、できなかった。
第5話 静寂の中で
少女が去った後、カフェの片隅は、以前よりも深い静けさに包まれていた。
彼女の声も、温もりも、もうどこにもない。
人形は再び、ただの「飾り」に戻った。
何も変わらないはずなのに、胸の奥には確かにぽっかりと穴が空いていた。
――もし出会っていなければ、この痛みを知らずに済んだのに。
けれどそれでも、人形は微笑んだような気がした。
たとえ、再び静寂の中に閉じ込められても――
少女がくれた優しさと温もりは、永遠にこの胸の奥で生き続ける。
あとがき
この物語は、「声を持たない存在」と「心を閉ざした少女」の、小さな心の交流を描きました。
わたしは「人形だけど、もしかしたら……」って、たまに考えちゃいます。
人形には言葉はないけど、想いは届いているかも。
孤独の中でそっと寄り添う”存在”がいるだけで、人は安心できるのかもしれません。
読んでくださった方にも、心に残る“静かな温もり”が届いていたなら、幸いです。