第四章 栄光の回帰

契約を交わした翌朝。

湿った布で覆われた安宿の窓から、薄い朝の光が差し込む。

身を起こし、眠りの残滓を振り払った。

その時、コンコンと扉を叩く硬い音。

「失礼。レティシア・ヴァルフォール嬢で、お間違いありませんか?」

低く、よく通る声が響いてきた。

扉を開けると、正装を纏った中年の男が立っていた。

艶の消えた安宿の廊下には不釣り合いなほど整った姿だ。

「……ええ、そうだけど。どなた?」

男はわたしの惨めな寝床を一瞥すると、胸元から書状を取り出した。

「私はエドワード・グラントと申します。テッサリア・ヴァルフォールの使いの者です」

テッサリア? そんな名を聞いたことがあるような気もするが、顔も声も思い出せない。

遠縁の親戚だろうか?

「じつは、故人が遺言にて、姪君――すなわちあなたに遺産を相続させる旨を残しておりまして。

 本日、その引き渡しに参りました」

「……は? 遺産?」

その男が言うには、テッサリアという遠縁の叔母にあたる人物が先日急死し、遺産を相続する子供がいなかった叔母は、わたしに相続させる旨の遺書を残していたらしい。

王都西側近郊のウィンドミア領、および屋敷一棟。そして相当額の金貨。それらが署名するだけで速やかに移譲される、そんな話だった。

エドワードの声は揺るがず、先を続けた。

「使用人もそのまま残っておりますので、もしよろしければ、この私も含め引き続き仕えさせていただければ。――レティシアお嬢様」

深々と頭を下げる。

手渡された書状には、確かに王家の認可印。

冷たい蝋の感触が、夢ではないことを突きつけた。

「ああ……テッサリア叔母様。そんな……」

両手を胸に当て、恭しく祈る仕草をした。

だが心の奥では何の感慨も湧かない。顔すら思い出せぬ叔母の何を偲ぶというのか。

(本当に? こんなに早く……)

胸の鼓動が早鐘を打ち、唇が勝手に微笑を形作る。

「ええ、もちろん。こちらこそ、よろしくお願いね、エドワード」

荷をまとめることもなく、女主人に宿を引き払う旨を告げた。

この女主人、わたしが困窮する様を見てほくそ笑んでいたのは気に入らないが、もう二度と会うこともない。最後に選別くらいくれてやる。

「これを取っておきなさい」

そう言って、手持ちの銀の髪飾りを投げ渡した。

唖然と立ち尽くす女主人を一瞥し、エドワードの差し出した腕に手を添えて、ためらうことなく安宿を後にする。

外に待たせてあった馬車に乗り込むと、胸の奥でなにかがひっそりと軋んだ気がした。

見えない何かが剥がれ取られたような感覚。

(少し、浮かれすぎかしらね)

その微かな痛みは、すぐに掻き消えた。

二週間後。

わたしの居場所は、もはやあの煤けた安宿ではなかった。

ウィンドミア領の湖畔に建つ瀟洒な屋敷。

地下には葡萄酒の樽が並び、階段の手摺は磨き上げられ、寝室には洗い立てのリネンの香りが漂う。

屋敷の隅々まで、久しく忘れていた“貴族の匂い”が満ちていた。

まだ手続きの途中とはいえ、やがて正式に「ヴァルフォール伯爵」として名簿に載る予定だ。

胸を張るだけで、世界がわたしを肯定してくれるような感覚があった。

安宿に迎えに現れた男――エドワード・グラント。

故テッサリアに長年仕えた執事長であり、今は忠実にわたしを補佐している。

彼は領地の財政や運営に精通し、報告は簡潔で的確。父や兄のように油断や怠慢を見せることはない。

収支の帳簿を一読して、小さく頷いた。

ウィンドミアは畜産を基盤に毛織物や乳製品を出荷し、街道沿いの関税や宿泊料でも潤っている。財政は安定しており、少なくとも没落した本家よりは、はるかに健全だ。

「エドワード。不正や横領の類は、決して見逃さないで。父や兄の二の舞は御免だわ」

「かしこまりました、レティシア様」

彼は頭を下げ、その声には迷いがなかった。

願いの代償として“後悔”を失った――らしい。
だが今のところ、何の不都合も感じていない。

先日の朝のこと。
屋敷の侍女が銀盆を傾け、熱いチョコレートがテーブルクロスにこぼれ、黒い池を作った。
かつての私なら、眉を吊り上げ、声を鋭くしてしつけ直しただろう。あるいは、その場で解雇を言い渡したかもしれない。

けれど今は、他人の失敗など、どうでもいいと感じる。

「取り替えてくださる? ……気をつけてね」

ハンカチを差し出し、ただそれだけを言った。

侍女は目を見開き、やがて感銘を受けたように深々と頭を下げ、ハンカチを受け取った。
屋敷の中では、いつしか「新しい女主人は寛容だ」との評判が立ち始めていた。

他にも、領主として恐れることなく決断を下せるし、初めての領地運営も驚くほど冷静にこなしている。


“後悔”を失うことは、損失どころか――むしろ得難い祝福ではないかとさえ思える。

窓辺に立ち、湖面を吹き渡る風を吸い込む。

牧草地を行き交う農夫や家畜の姿はのどかで、領地経営者として誇るべきものだった。

だが――。

(やはり、こんな田舎は性に合わないわね。光に満ちた王都、華やかな舞踏会こそが似つかわしい)

「エドワード」

振り返り、命じる。

「新たなヴァルフォール家当主として、王都の主要な貴族へ挨拶状を出したいの。準備して頂戴」

「承知いたしました。では王都の五侯会議、そして伯爵家に準備しましょう。……他にご指定はございますか?」

「ええ、クレマンス男爵家にもお願い。こちらは私が直接、手紙を書くわ。親しい友人なの」

――フルール・クレマンス。

あの日渡された指輪、約束通り社交界の場で返すわ。その時が待ち遠しい。

一週間後。エインズワース侯爵家から、舞踏会への招待状が届いた。

(ついに来た……!)

ヴァルモンド王国大貴族の一翼、エインズワース侯爵家からの招待。

当主のアーサー・エインズワースとはかつて顔を合わせたこともある。

この招待は、王都でも最大規模の舞踏会への切符だった。

屋敷は慌ただしくなった。宝飾商が宝石箱を広げ、仕立て屋が絹のドレスを並べる。

鏡の前に立ったわたしの姿は――もはや安宿でパンを齧っていた女ではない。

深紅の布が波打ち、薔薇の花弁のように広がる。

(そう、これが本当のわたしよ。やっと戻ってこれた……)

心は歓喜で満たされる――はずだったが、胸の奥で微かな違和感が灯る。

没落の夜。

赤絨毯の廊下で立ち尽くしたときの、あの焼けつくような悔恨。

今では、その感覚がどんな痛みだったのか思い出せない。

(……まあいいわ。過ぎたことを悔やんでも仕方がないものね)

そう自分に言い聞かせ、再び招待状に視線を落とした。

王都の大通りに面したエインズワース侯爵家のタウンハウスは、夜空の星々をも掻き消すほどの豪奢さを放っていた。

正面の扉をくぐると、光の奔流が広間にあふれ出す。天井に吊るされた巨大なシャンデリアが、無数の水晶片を揺らし、壁の大鏡は金の縁取りに煌めきを返している。

優雅な楽団の旋律が絹の衣擦れと重なり、甘美な香りを漂わせる花々と、芳醇な葡萄酒の香りが空気を満たしていた。

人々の談笑、グラスの触れ合う音、笑い声――すべてが華やかな奔流となって押し寄せる。

エドワードの腕に導かれ、赤絨毯の中央を進むと、わたしに視線が集中するのを感じた。

ざわめきが止み、一瞬の静寂ののち、息を呑む音が広間を包む。

“西方の薔薇”――その名が、囁きとなって再び空気を震わせた。

『おお、レティシア嬢だ。貴族に返り咲いたという噂は本当だったのか』

『遠縁の遺産を継いだらしいぞ』

羨望、嫉妬、好奇。

そのすべてを浴びながら、一歩ごとに背筋を伸ばし、前に進み出た。

その時、グラスを片手にした若い伯爵夫人が、わざと聞こえる声で囁いた。

「よくもまあ、顔を出せたものね。没落の記憶はまだ新しいでしょうに。確か父親は罪を問われて投獄されたのでしょう?」

その隣にいた男爵は鼻を鳴らす。

「遠縁の遺産を受け継いだそうじゃないか。羨ましいものだな」

二人の声は、舞踏会のざわめきの中でも妙に鮮明に響いた。
かつてなら顔を紅潮させ、言い返さずにはいられなかっただろう。けれど――。

わたしは微笑んだ。正しい角度で口角を上げ、赤い唇に花を咲かせる。

「まぁ。楽しめていただけて何よりですわ。貴族の没落も再興も、舞踏会の余興にすぎませんもの。皆さま方の噂話に彩りを添えるのも、貴族の務めですから」

二人は一瞬、言葉を失い、引きつった笑みを返す。
その反応を見ながら、胸の奥に波は立たなかった。不思議と、怒りも悔しさもない。

(これは、”後悔”を差し出した影響かしら? まあ、この程度なら安いものね)

かつては羞恥で胸を焼かれた言葉も、今は遠い他人事のように聞こえる。
心が震えないまま、裾を翻し、エインズワース夫妻のもとへと歩みを進めた。

広間奥の侯爵夫妻の前に進み出て、深く一礼し、声を放った。

「このたびは、ご招待いただき、誠にありがとうございます。エインズワース侯爵。ヴァルフォール家当主として初めて社交界に復帰するにあたり、このように由緒ある舞踏会へお招きいただけたこと、心より光栄に存じます」

侯爵の眉が和らぐ。

「久しいな、レティシア嬢――いや、今はヴァルフォール伯爵か。父君の不祥事は王都を震わせたが、その苦難を越え、家を再興しようと立つそなたの心意気、実に見事。亡きテッサリア殿も、さぞ誇りに思っていることだろう。その再興を、我らは心より祝福する」

「侯爵、温かいお言葉をありがとうございます。叔母の労苦を思えば胸が締め付けられますが……その名を受け継ぐ者として、私は決して諦めません。ウィンドミア領を再び光で満たし、侯爵家のように、人々が誇れる家としてみせましょう」

「おお……立派になったものだ」

侯爵は深く頷き、杯を傾ける。その隣でイザベラ夫人がやわらかく微笑んだ。

「女一人で伯爵家を取り仕切るのは、さぞお辛いでしょう。良い縁談などあればよいのに」

「ええ、まだ婚姻の話はございません。侯爵夫妻のように、素敵な伴侶を得られればと願っております」

夫人の憂慮を受け止めつつ、背後のエドワードを振り返った。

「ですが、優秀な執事と領民に支えられておりますので、ご安心ください。ねえ、エドワード」

「はい」

エドワードは一歩前へ出て、頭を垂れた。

「レティシア様は領地の運営を滞りなく導いておられます。不正を排し、健全さを何よりも望んでおられるのです」

「ふむ、なるほど。良い心がけだ」

侯爵は杯を持ち上げ、声を張り上げた。

「よろしい。我らエインズワース侯爵家は、この場をもって宣言する。ヴァルフォール伯爵家の後ろ盾となり、いかなる困難においても支えよう!」

その言葉に広間は震え、拍手と歓声が奔流のように広がった。

杯が重なり、楽団が音を高める。

喝采の渦が、わたしを中心に巻き上がっていくのがわかる。

「レティシア、そなたはもう一人ではない。我々がヴァルフォール家の再興を、この王国が祝福するまで見守っていこう」

「……侯爵。謹んで、お受けします」

侯爵に深く頭を下げた。

これで貴族としての立場は盤石と成った。もう何も恐れるものはない。

ーーそのはずなのに

喜びに胸は震えず、感動で頬は紅潮しない。

まるで厚い硝子の向こうから、光と音だけを眺めているような遠さ。

ただ「そうあるべきだ」という筋書きに従って頭を下げただけ。

(あれほど望んでいた瞬間なのに……)

歓声の海のただ中で、心の奥にひそかな音がした。

 ぺりり、と――。

何かが剥がれ落ちてゆくような音。

何か、おかしい。

だがそんなことを考えている余裕もなく、周囲の歓声と祝福の声に応えなければならなかった。

貴族に返り咲いたあの舞踏会から数ヶ月が過ぎ、庭のバラが咲き誇る季節、一人の男性が屋敷を訪ねてきた。

ジュリアン・スターリング子爵。

五侯会議の一翼を担うスターリング侯爵家の次男であり、社交界で再び注目を浴びるようになって顔を合わせる機会が増えた人物だ。

エインズワース侯爵の後ろ盾を得て以来、縁談の話がうんざりするほどやってきた。

貴族の婚姻は政略的な打算に満ちたものなのは理解しているが、縁談の相手は格下貴族や爵位狙いの商家など、明らかに相手の利になるものばかり。

おそらく没落した当時の醜聞から、条件の良い相手は現れないと侮っているのだろう。

そんな中、彼は婚姻の話を口にすることなく、個人的な交流を望み、領地の話に関心を示した。

打算ではなく、わたし個人に興味を抱いている、そんな感じだった。

そして今回、「視察」という名目でウィンドミアを訪れたわけだ。目的はどうあれ、スターリング侯爵家の力を借りるのは、悪い話ではない。

ジュリアンの女性遍歴も、以前恋仲にあった男爵令嬢が1人いたらしいが、破局して以来、付き合いのある女性はいないようだ。

豪奢な馬車から降り立った彼は、短い金髪の涼やかな面立ちと洗練された身のこなしを見せ、深々と一礼した。

「レティシア様。本日はご多忙の折、このような機会を賜り、感謝に堪えません。社交界でお見かけするドレス姿は素敵だが、今日のようなシンプルな装いも美しい」

声は穏やかで、耳に心地よい。

侯爵家の貴族で派手な女性遍歴はなく、見目は良く所作も申し分ない。

結婚相手とするならば、申し分ない相手といえるだろう。

とはいえ、相手の意図がわからないうちは、絆されるわけにはいかない。

礼節を尽くすその言葉に、わずかな警戒を滲ませながらも、笑みを形作った。

「ようこそ、ジュリアン子爵。遠路はるばるお越しいただき、嬉しく思います。エドワード、どうぞご案内して差し上げて」

警戒されたのを察したかのように、ジュリアンの口元がわずかに吊り上がる。

エドワードに案内されているが、視線はわたしに向けられたままだ。

悪い気はしないが、少し執着じみたものを感じてしまう。

その後の視察は、彼の知識と弁舌に彩られていた。

「この高台からの風は牧草を豊かに育み、家畜の毛並みを整える。実に恵まれた土地だ」

「我がスターリング家の工房には熟成チーズとバターの製法のノウハウがあります。もし技術と販売ルートを共有すれば、ウィンドミアの乳製品は王都での流通をより活発にできましょう」

称賛に交じり、鋭い観察眼で牧場や人々を見渡す。彼の言葉は的確で、実際に役立つ提案ばかりだった。領地を知りつくしたエドワードすら、「悪い話ではありません」と評価しているほどだ。

もしスターリング侯爵家の協力が得られれば、ウィンドミア領はさらなる発展が見込めるだろう。

しかし逆に、ジュリアンからすると、あまり利のある話とは思えない。

ウィンドミアはそれほど大きな領地ではないし、スターリング侯爵家の領地からも離れている。

ジュリアンほどの立場なら、一度没落した貴族ではなく、もっと相応しい相手を見つけることもできるはずだ。

一体何が狙いなのだろうか?

「それはですね…… その、あなたの気を引きたかったからと言えば、信じてもらえますか?」

視察の後、昼食の席を共にしたとき。

彼の意図を図りかねて直接考えを問うと、真っ直ぐに見つめてそう返答された。

どうやら彼は、わたしに気があるらしい。

「実は、社交界の場であなたを見かけるたび、その立ち振る舞いが頭から離れないのです。あなたの蒼い瞳や細い指先を見るたび、見惚れてしまいます」

ジュリアンの熱い眼差しが、向けられている。

本気、と思ってもよいのだろうか。

「まあ。とても光栄ですわ。個人的にお会いしたのは、今回が初めてなのに」

笑顔を浮かべてそう答えた。

するとジュリアンは席を立ち、目の前に跪いてこちらに顔を向け、手を差し出してきた。

「レティシア様。どうか、婚約を交わしてはいただけませんか?

他の男があなたに言い寄る姿を見るのは、耐えられそうにない。わたしは、あなたの隣を歩く権利がほしい。あなたの全てを支え、守り抜くことをこの命に掛けて誓いましょう」

響く低音。誠実でありながら、切実な声音。

彼が好意を抱いていることは察していたが、ここまで情熱的な言葉を浴びせられるとは。

本来なら――これほど待ち望んだ瞬間は、他にないはずだ。

けれど。

胸は静かだった。心臓は速まらず、頬も紅潮しない。

(……まただ。嬉しいはずなのに、喜びも、感慨も湧かない。)

「……わかりました。喜んで、お受けします」

答える声さえ、自分のものではないように響いた。

すべては順調。何もかも望んでいた通りに進んでいるのに――。

なぜか、喜びを感じられない。

不意に脳裏に蘇ったのは、あの時のフェリシティの囁き。

『では対価として――あなたの“後悔”をいただきましょうか。もう必要ないのでしょう?』

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