フルールと再会した夜。
寝室の天蓋の布目を数えても、ひとかけらの眠りも降りてこない。
恐ろしい。
”後悔のない人生”など、何の希望もなく生きるのと同じ。そんな大事なことに、今頃気づくなんて……。
このままでは、本当に“人形”のようになる
――社交界に立ち、称賛を浴び、将来の夫の愛を受けながら、何も感じない人形に。
そんな人生に、いったい何の意味があるのか。
(嫌。そんなの、絶対に嫌!)
胸の奥でかすかに残っている“後悔”を、最後の火種のように両手で庇い、身を起こした。
行き先はひとつ――フェリシティの店。
取り戻すしかない。返さないというなら、ーー奪ってでも。
*
東雲のころ、エドワードに「王都へ行く」とだけ告げ、支度を命じた。
このことは誰にも知られてはならない。
実行するのは、わたし一人。
王都に入ると、南の市街で馬車を降り、「知人に会う」と告げて従者を退けた。
以前訪れた時と同じ、古時計塔を過ぎ、三つ目の路地へ。
昼なお薄暗い石畳は湿り、腐った果物と雨水の匂いが靴先から這い上がってくる。
――古びた木造の小さな建物。白いカーテンに覆われた窓。
初めて訪れたあの日と同じ姿で、その店はそこにあった。
扉を押すと、澄んだ鈴の音が響く。
そして――。
「あら、いらっしゃい。レティシア」
机の向こう、雪のような白髪、底なしの黒い瞳。
フェリシティは、まるでわたしを待っていたかのように微笑んだ。
「今日はどんなご用かしら? 追加の願いなら、大歓迎よ」
「追加の願い、ですって? 冗談じゃないわ!」
声が跳ねる。
「フルールから聞いたわ。すべて、あなたの仕業だったんでしょう、フェリシティ!」
フェリシティは愉快そうに目を細めた。
「……フルール、あなたに話したのね。まったく、契約なんて交わしても、すぐ口を滑らせる」
「こんな契約、不当よ! わたしから全部奪っておきながら、よくも平然と――最初から仕組んでいたんじゃないの?」
「確かに、フルールの願いを叶えてあげたわ。けれど、わたしが手を下さなくても遅かれ早かれ、あなたは破滅していたはずよ。自分でもわかっているでしょう?」
喉が乾く。確かに、父と兄の不正は取り繕いようがなかった。
「それに、願いは叶えてあげたわ。何が不満なのかしら? まさか、いまさら”対価”が惜しくなった、なんて言わないわよね?」
「あの時は、こんな風になるなんて思わなかったのよ! 願いが叶っても、何も感じなければ意味がないじゃない!」
もし分かっていたなら――“後悔のない生”など願わなかったかもしれない。
貴族でない生を選んだ可能性だって、ゼロではなかった。
「わたしから奪った”後悔”を、返しなさい!」
胸が灼ける。残された“後悔”が怒りに姿を変え、喉を突き破ろうとするほど叫んだ。
フェリシティはそれを眺め、喉の奥で笑った。
「あっははは! レティシア、あなたって本当に面白い。ーーとっても滑稽だわ」
「……何ですって?」
「自分で『必要ない』と言ったくせに、いまはその僅かな”後悔”に縋りつくなんて。
ねえ、あなた前に言ってたでしょう? 『平民のように地べたを這いずる生き方はごめん』って。それと、どれほど違うのかしら?」
「黙りなさい! 問答はもう結構。 返せと言っているのが聞こえないの!?」
「無理な相談ね。契約書にもそうあったでしょう。もちろんーー残りも近いうちにいただくわ」
甘やかな声が、冷たい刃のように耳朶を切る。
もう、やるしかない。
「……なら、殺してでも取り戻す。死ねば、これ以上奪えないでしょう」
そう言ってドレスの裾に隠していた短剣を抜き、震える両手で構えた。
「まあ」
恐れの色は微塵もない。
それどころか、両手を広げ、まるで抱擁を乞うように胸を差し出してくる。
「いいわよ。その覚悟があるなら――やってごらんなさい」
心臓が破裂しそうに暴れた。
「脅しじゃ、ないわよ」
「ええ。もし殺せたら、奪われないかもね」
掌に力を込め、歯を食いしばる。
(殺す、殺さなければ、奪われる)
「うわぁぁぁぁぁっ!」
両手で短剣を握り、歯を食いしばって、両手で短剣をフェリシティの胸に突き立てた。
「なっ!?」
肉を断つ感触はなく、硬く冷たい、蠟の塊のような抵抗が手首に鈍く返ってくる。
思わず短剣から手を離し、距離をとった。
フェリシティは苦悶の一つも見せず、胸に突き立ったままの短剣を興味深そうに眺めている。
「残念。これじゃ私は殺せないわ」
笑みを浮かべながら、胸に刺さった刃をすっと引き抜く。
布地にぽっかりと穴が空いているのに、血は一滴も滲まない。
「あなた……一体、何なの……?」
「さあ? 何かしらね」
艶やかに唇が吊り上がる。
その笑みは、まるで愉悦と好奇の化身。
恐怖が、足元から這い上がってくる。
「でも、はっきりしていることがあるわ。
あなたはもう、契約を破れない。逃げることも、できない」
そう言うとフェリシティの瞳全体が漆黒に染まっていき、底の見えない黒へと深く沈む。
同時に、周囲に冷たい風が巻き起こった。
禍々しいその姿に、声にならない叫びが喉で崩れ、全身が震える。
「残りの”後悔”をいただくわね。レティシア」
(いや……まだ、終わってない! 終わらせたくない!)
そう念じた意志さえ、冷たい霧に包まれて薄れていく。
フェリシティは短剣を机に置き、優雅に一礼した。
「もう会うことはないでしょう。――さようなら、“元”お客様」
その声が耳の奥で鈴のように鳴った瞬間、視界が暗転した。
*
目を開けると、南区の路地に立っていた。
店のあった場所には、瓦礫が積まれた廃屋めいた建物がぽつんと残るばかり。
夢……? いいえ、違う。
胸に絡みつく虚ろさは、たしかにここにある。
最後に残っていた“後悔”のかけら――それさえ、もうどこにも見当たらなかった。
冷たい虚無だけが、わたしの内側を、隅々まで満たしていた。
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