第二章 伯爵家の”西方の薔薇”


伯爵家の長女として生まれたときから、両親はわたしを宝石のように扱い、何一つ不自由なく与えてくれた。わがままを言えばすぐに通り、叱られることもなかった。

母親から生まれながらに貴族であると教えられ、そう信じていた。

姿形には恵まれていたし、学ぶことも苦にならなかった。舞踏、音楽、語学、礼儀作法。習ったものはすぐに吸収し、誰よりも早く自分のものにできた。けれど、それを誰かのために使おうと思ったことはない。わたしの学びは、わたしのため。

「王家や五侯会議には敬意を払え」――そう両親に教えられた。

※五侯会議:公爵二家と侯爵三家からなる、王家に次ぐ五大貴族。


だから彼らを敬い、親しげに振る舞った。

けれど、男爵や子爵、ましてや平民にまで情けをかける理由はどこにもない。視線ひとつで彼らを下に見て、庇護を求められれば従順な者だけ取り巻きに加えてやった。

対象的に、兄は凡庸な人間だった。容姿も才覚も平凡で、父に叱責される姿を幾度となく見てきた。社交会に顔を出すようになってからは、伯爵家の地位を利用して放蕩していると聞く。

そんな兄を見ていると、自然と思ってしまう。


――ヴァルフォールの名を継ぐのにふさわしいのは兄ではない、このわたしだ。

社交界に出る頃には、その確信は揺るぎないものになっていた。
わたしは舞踏会の花として称えられ、“西方の薔薇”と呼ばれるようになった。

生まれながらの貴族で、これからもそうなのだと、信じて疑わなかった。

その夜、王都リュセールの大舞踏会は、光と香りと笑いに包まれていた。

シャンデリアが幾千もの宝石のように輝き、楽団の旋律が絹の衣擦れと混じり合う。

その中心にいるのは、わたし――レティシア・ヴァルフォール。

王都の格式高いヴァルフォール伯爵令嬢、“西方の薔薇”。

社交界の誰もがそう呼び、視線と憧れを惜しみなく捧げていた。

深紅のドレスを翻し、杯を傾ければ、取り巻きの令嬢たちが花のように笑う。

その光景こそが、あるべき居場所だった。

大広間を見渡し、招待客の面々を眺めながら、今日の”遊び相手”を探す。

そんな折、片隅に目を留めた。淡いピンクのドレスを着た若い令嬢

――聞けば、地方の男爵家の娘らしい。

その衣装は、場違いに地味で、今の流行から外れていた。

それでも彼女は緊張を隠そうと微笑んでいた。

(今日の遊び相手は決まったわね)

取り巻きの令嬢たちに囁いた。

「あの令嬢、ちょうどいいわ。今宵の余興にふさわしい役者が見つかった」

歩み寄り、わざとらしく声をかける。

「失礼。あなた、来る場所を間違っているのではなくて? ドレスの流行が何百年も遅れているようだけど」

男爵令嬢の頬が強張り、笑みが凍りついた。

「いえ、あの。これは母と一緒に選んだ物でして…」

その背後で、取り巻きの一人が彼女の足元へとさりげなく足を滑り込ませる。

彼女はよろめき、次の瞬間、手にしている赤ワインを、彼女の淡いピンクのドレスにこぼした。

「まあ、ごめんなさい。あなたがこちらに向かってきたものだから、うっかり」

男爵令嬢は狼狽えながらドレスについた赤ワインをハンカチで拭取ろうとしている。

その姿がとても滑稽に見えて、思わず愉快になって微笑んだ。

「ふふ、これで少しは華やかになったかしら?」

取り巻きたちの笑いが大広間に広がり、男爵令嬢は顔を赤くして俯いた。

そして涙をこらえるように退席し、別の衣装に着替えて戻ってきた。

が――「品評会」は、まだ終わっていない。

「皆、聞いて。今夜、あの子は“いない”ことにしましょう」

そう囁くと、令嬢たちは一斉に頷いた。

その後、男爵令嬢に話しかける者は皆、露骨に視線を逸らし、男性陣も空気を読んで誰ひとり彼女をダンスには誘わなかった。

男爵令嬢が声をかけても、返ってくるのは引きつった笑みと無言の背中だけ。

舞踏会の中心は、このわたし。わたしが認めないものは、この場に必要ない。

名も知らぬ男爵令嬢が大広間の隅で孤立していく姿を、取り巻きの令嬢たちと笑いものにしながら、愉快な夜会を楽しんだ

夜会から二週間後。

王都の貴族の間で、不穏な噂が囁かれるようになった。

『ヴァルフォール伯爵が、陛下の逆鱗に触れたらしい』

『贈賄や横領の噂があるらしいぞ』

『このままでは爵位が危ういのでは?』

廊下の影、舞踏会の一角、馬車の中。どこへ行っても耳に入るのはそんな囁きばかりだった。

取り巻きの令嬢たちは、わたしの前では努めて明るく振る舞い、誰も口にはしなかったが、わずかに泳ぐ視線や引きつった笑みに、噂の真実味が増していくのを感じた。

(くだらない。わたしたちは生まれながらの貴族。根も葉もない噂で揺らぐはずがない)

そう自らに言い聞かせ、夜会に通い続けた。

シャンデリアの光は変わらずわたしを照らし、男たちは手を差し伸べ、女たちは羨望と嫉妬を隠せず視線を寄越す。

“西方の薔薇”は健在――そう示し続けることが、義務でもあるのだから。

けれど、胸の奥に沈む小さな影は、日ごと濃くなっていった。

そして、唐突にその日は訪れた。

雨の降る薄暗い空模様の下、王家からの勅使が屋敷を訪れた。

厚手の羊皮紙に刻まれた王家の紋章が、燭台の明かりに赤く揺れる。

「バカな! 特別法廷への呼び出しだと!?」

父の怒号が屋敷に響き渡った。

居間に駆けつけ目に映ったのは、顔を紅潮させ、書状を震える手で握る父の姿。

母は蒼白な顔でソファの肘掛けを握りしめ、兄は不機嫌そうに腕を組みながらも額に冷や汗を浮かべていた。

「お父様……一体どうなさったの?」

唇が震える。耳にしてきた噂が、否応なく現実味を帯びる。

母は必死に取り繕うように言った。

「心配いらないわ、レティシア。陛下もすぐ誤解に気づかれるはずよ」

だが、兄は吐き捨てるように笑った。

「誤解だと? 父上が役人を買収してたのは事実だろう。今さら言い逃れはできないだろうさ」

「黙れ! 貴様の賭博と浪費で税収に穴が空いた不始末が、露見したのかもしれんのだぞ!」

父が机を叩きつけ、書状が宙を舞った。

その瞬間、胸の奥を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に襲われる。

あの夜会で耳にした囁き。取り巻きたちの曖昧な笑顔。すべてが繋がっていく。

(何が起こっているの……? わたしは生まれながらの貴族。父や兄の不正なんて、関係ない……関係ないはず……)

そう繰り返しながらも、奥歯を噛みしめていた。

翌日。

特別法廷にて父の罪は糾弾され、爵位は剥奪の上、投獄。領地も財産も没収と決まった。

王都に鳴り響いた鐘の音は、祝福ではなく死刑宣告のように重く響いた。

屋敷の侍女たちは次々に去り、取り巻きの令嬢たちは冷笑を隠そうともしなかった。

『無価値の薔薇など、相手にする必要ありませんわ』

『平民となっては、もうお会いすることもないでしょうね』

兄は余罪の追求を恐れて僅かな財産を持って行方を眩まし、母はすべての責任を放棄し、遠縁を頼って王都を逃げ出した。親類や友好関係にあった貴族も、道連れを恐れて誰も手を差し伸べはしなかった。

広大な屋敷に残されたのは、わたしだけ。

赤絨毯の廊下を歩く靴音が、虚しく反響する。

(どうして――どうしてこうなった!)

怒りに震えようとも、誰もいない屋敷には、不満をぶつける相手すらいない。

ヴァルフォールの名は嘲笑と共に街に響き渡り、社交界から完全に追放された。

爵位剥奪から数日後。

わずかに残った宝飾を抱え、屋敷を出た。

“西方の薔薇”と呼ばれた令嬢の姿は、もうどこにもなかった。

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