最終章 栄光の牢獄

胸の奥にあった鋭い棘は抜かれ、穴も塞がっている。ただ、静かだ。驚くほどに。

“後悔”という名の熱源は、完全に消えた。

――いまのわたしには、悔やむという心の動作は存在しない。

過去を振り返っても、あの日の屈辱はただの出来事として頭の棚に並ぶだけ。

「もっと謙虚であれば」「もっと優しくできたはず」

――そのような言葉は、もはや意味をもたなくなった。

同じ失敗を繰り返しても、それは単なる結果であり、物語ではない。

人々はわたしの成功を祝福し、花を贈り、言葉を飾る。

わたしはそれを数え、受け取り、整理する。けれど、心は動かない。

喜びも感動も、かつて知っていた輪郭から離れて、姿のない影になった。

思い出す。

失敗に絶望し、成功に胸が高鳴った頃。

あの波立つ心の方が、いまよりずっと生きていたような気がする。

――そう思うことさえ、遠い情景にすぎない。

ジュリアンとの婚姻が正式に決まり、その報はすぐさま王都中を駆け巡った。

一度は没落した貴族令嬢が、家を復興させ、幸せな結婚を掴み取る美談として語られていた。

使いの者が次々に到来し、祝辞と贈り物が積み上がっていく。

紙の匂い、蝋の匂い、花の匂い。一筆ずつ返事を書き、正しい字面を並べていく。

意味は流れる水のように手から零れ、残らない。

ある日の午後、フルール・クレマンスが屋敷に訪ねて来た。

エドワードに案内されて応接間に入り、彼女は扉が閉まる音を待ってから口を開いた。

「婚姻、おめでとうございます――と言うべきなのでしょうね」

声音は平らで、瞳だけが乾いた光を持っていた。

「ありがとう」

口角を持ち上げる。正しい角度で。

フルールは、わたしの顔をのぞき込むようにして言った。

「レティシア。あなたに“いいこと”を教えに来たの。夫になるジュリアン子爵のことよ。

 ――彼ね、異常な人形愛好家なの」

彼女は愉快そうに声を落とし、話を継いだ。

ジュリアンは幼いころからビスクドールに強い興味を持ち、部屋にはお気に入りの人形をずらりと並べているらしい。社交界に出たばかりの頃、ある男爵令嬢に夢中になり、宝石や豪奢なドレスをプレゼントし、恋仲になった。

愛情はやがて、彼女の行動すべてを支配しようとする歪んだ執着へと変わり、ついには屋敷の一室に閉じ込めるようにして外界との接触を禁じ、意思も感情も無視して、自分の理想の「人形」として愛そうとした――。

「でね、その令嬢は逃げ出したの。友人の家に逃げ込んで、震えながら訴えたそうよ。それを知ったスターリング侯爵は、息子を守るために事実を隠蔽した」

そこまで語ると、彼女は椅子の背にもたれ、ほつれた笑みを整えた。

「実はね、レティシア。ジュリアンにあなたを勧めたのは、このわたしなの。
 “あの女は、あなたの全てを受け入れてくれる”――そう吹き込んだら、彼、あっさり信じてしまったわ。人形偏愛者の彼が、あなたをどんなふうに愛してくれるのかしらね?」

「……なぜ、あなたがそんなことを知っているの?」

「前にも言ったでしょう? しがない男爵家でも、社交界ではそれなりに融通が効く立場にあると。五侯貴族の一人に、私の言葉を聞いてくれる愛人がいるの。あなたのためなら、男を利用するくらい何でもないのよ」

ただ「そう」と頷いた。
声に抑揚はなく、顔に影も差さない。

「それは――大変かもしれないわね。でも残念だけど、あなたの望む“わたしの不幸”は、もう存在しないわよ」

フルールがわずかに瞬いた。

「……どういう意味?」

「言ってなかったかしら。わたしは“後悔”を対価に、願いを叶えたの。
 もう完全にフェリシティに奪われてしまったわ。だから、あなたが何を仕掛けても無駄なの。
 悔やむことも、嘆くことも、もうできないのだもの」

沈黙。
フルールは唇を吊り上げようとしたが、笑みは形にならなかった。
頬がぴくりと震え、指先がかすかに机を叩く。

「……悪い冗談ね」

低い声が落ちる。

「どう取ってもらっても構わないわ。せいぜい努力してみなさい」

彼女は椅子の肘掛けに爪を立て、白くなるほど力を込め――やがて、手を離した。

「あなたが何を言おうと、私は諦めないわ。……それだけよ」

その目の奥に、ひとつ空洞が増えた音を、確かに聞いた気がした。
彼女は立ち上がり、淡い礼だけを残して去っていった。扉が閉まり、沈黙が戻る。

わたしから辱めを受け、恨みを募らせ、報復としてフェリシティに“わたしの不幸”を願った令嬢。

眩いほどの美しさを手に入れ、高位貴族の男すら手玉に取る器量を身につけておきながら――たった一人の女の不幸以外に興味を持てないとは。

その滑稽さに、思わず笑いがこぼれた。

けれど、その笑い声は自分でも驚くほど乾いていて、喉の奥で小石を擦り合わせるようにかすれただけだった。

フルールの苦痛が嬉しいわけでも、彼女を嘲っているわけでもない。ただ、「計画通りに事が運んだこと」への皮肉な合格点を口にしたかのような――そんな音だった。

それ以上の感情は、どこにもなかった。

結局のところ、いまのわたしにとっては、道端の小石を蹴飛ばした程度の、取るに足らない出来事でしかないのだから。

ジュリアンとの婚礼は、王都の大聖堂で盛大に催された。
彩色ガラスから射す光が床に花の影を落とし、司祭の声が天井で幾度も反響する。合唱は薄絹のように降り、空間を覆い尽くす。
指輪が指に触れる。冷たい。――ただ、その事実だけが記憶に残った。

夫となったジュリアンの屋敷に移ると、目に飛び込んできたのは整然と並んだ無数のビスクドール。フルールが語った話は、虚言ではなかった。


やがて私は、内鍵のない一室に「迎え入れられた」。軟禁――と呼んでいい状況だろう。
最低限の生活や公務、そして来客のときのみ扉は開かれる。
それ以外は、ジュリアンの「人形遊び」の相手。

「君には、最高のものだけがふさわしい」

彼はそう囁き、私の髪を丁寧に梳いた。
部屋には大量のドレスが届けられる。色名や番手の札が縫い付けられ、それに従って袖を通す。
ジュリアンは慎み深く、しかし恍惚とした表情で私に触れる。

「完璧だよ、レティシア。最高のビスクドールだ」

侍女が窓の鎧戸を閉め、外の風の音が遠ざかる。
この部屋を檻と呼ぶのは簡単だ。けれど私には、悔いるという心の動作が存在しない。
必要なのは、求められる所作に応じること。
微笑みを返し、頷き、指の位置を間違えないこと。

“生きた人形”を求めるジュリアンにとって、私は理想的な伴侶だろう。
そしてわたしは、それを否定する理由を持たない。

「嬉しいわ。ジュリアン」

口が、そう動いただけ。

やがて舞踏会の季節が巡ってきた。
夫のエスコートを受け、大広間に立つ。
光が降り、音楽が流れ、香りが交じり合う。
拍手は海鳴りのように押し寄せ、熱を帯びた視線が肌に貼りつく。

私は笑う。正しい角度で。正しい微笑みで。
次の拍手の波を待つように。

(――ああ、この世界は、地獄だ)

喉の奥で、音にならない言葉がひっそりと消える。
夜会の喧噪の底で、ふと、フェリシティの店を思い出した。
風のない部屋に垂れ下がる白いカーテン。契約の鈴の音。

だが振り向く理由はない。

わたしは舞う。微笑みを保ち、視線を受け止め、完璧な人形として。

誰もが知っている――これは成功の眩しさだ、と。
誰もが信じている――これこそが幸福の高みだ、と。

わたしはその中心に立っている。
美しく、欠けなく、瑕疵なく。
そして、空白のまま。

ジュリアンの掌が指を絡め、逃げ道をふさぐ。
光は眩しく、拍手は高らかに響き渡る。
私の微笑は、絵画のように美しい。

――けれど、その内側には、何もない

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