深く、静かな霧が森を包んでいた。
妖精と少年は、幾重にも重なる古木を越え、冷たい苔の絨毯を踏みしめながら進んでいた。森の奥へと進むにつれ、妖精の胸の奥に眠る記憶の断片が、微かに呼び起こされていくような感覚があった。それとともに胸のうちに押し寄せる、――恐怖と不安の感情。
妖精は足を止め、薄く開いた唇を震わせた。羽が微かに震え、光を纏ったその小さな体が、わずかに後ずさる。
「どうしたの!?」
妖精の変化に気づいた少年が足を止め、問いかける。
妖精は答えなかった。ただ、その瞳がどこか遠くを見つめていた。冷たい記憶の底に、ひたひたと水が満ちていくように、恐怖が広がっていた。
「怖い……」
か細く漏れたその声は、霧の中に吸い込まれるように静かだった。
「この先に、何かあるの?」
「分かってる……この先が、妖精の国だった場所。私はここへ来ることが、とても怖いと感じるの……でもそれがなぜか、わからない」
少年は黙って彼女に近づき、そっと掌を差し出した。妖精は迷った末に、その上に降り立ち、うずくまるように小さく身を縮めた。
「引き返そう。君が怖い想いをするくらいなら、引き返してもいいんだ」
「……いいえ。行かなきゃ、思い出さなきゃ。私が何者なのか……藍色の花が、他の妖精たちがどうして消えたのか……それに」
妖精は少年の顔を見上げ、笑いながら応えた。
「あなたと出会えたことも、こうしてここまで来られたことも、きっと偶然なんかじゃない。だから……私はもう、逃げたくない」
少年は静かに頷いた。
「じゃあ、僕も一緒に行く。君をひとりにはしないさ」
妖精の胸の奥に、ふわりとぬくもりが灯る。
恐怖を完全に消すことはできなかった。けれど、少年の手のひらの温もりに包まれたその瞬間、心の中の何かが、そっとほどけていくのを感じた。
……そして、ふたりはまた歩き始める。
それは、記憶と運命の湖へと至る道だった。
* * *
道なき道を進むうち、木々の隙間から淡い光が差し始めた。霧が次第に薄れ、ふたりの前にぽっかりと開けた空間が現れる。
そこには、かつて妖精の国があり、藍色の花が一面に咲き誇っていた――記憶の湖が、静かに横たわっていた。
湖は、まるで時の流れを拒むかのように、物音一つなく沈黙していた。水面は鏡のように滑らかで、雲一つない空と深い森の緑を、ゆがみなく映し出している。だが、湖のほとりには、かつて夜に淡く輝いていた藍色の花の姿は、どこにも見当たらなかった。
妖精は、宙に浮かんだまま足元を見つめ、そっと地に降り立った。羽が細かく震え、小さな肩がかすかに揺れている。少年が心配そうに見つめる中、彼女は無言で湖のほとりへと一歩、また一歩と近づいていった。
――その瞬間だった。
頭の奥に、鋭い光が走る。胸の内から、忘れ去られていた声と映像が奔流のようにあふれ出す。
――夜の湖。藍の花が波打つように咲き誇る風景。
――その中心で微笑む自分。
――そして、数多の人間を優しく招き入れる、女王としての自分の姿。
「……私……あの時……」
声は震え、瞳の光が消えていく。代わりに、底の見えない悲しみがその表情を覆っていった。
思い出してしまったのだ。
自分が、妖精たちの女王であったことを。
藍色の花の輝きの中で、人間に恐れも疑いも持たず、この地へと招き入れたことを――。
だが、その信頼は、無惨にも裏切られた。
人間たちは、藍色の花の香りが安らぎの夢をもたらすことを知ると、それを「万病に効く奇跡の花」と誤解した。そして欲望のままに花を摘み、持ち帰り、争い、奪い合った。
藍色の花が刈られるたびに、その花と繋がっていた妖精たちの命は、静かに、そして確実に消えていったのだ。
妖精は、呆然と湖を見つめながら呟いた。
「……あのとき、私が……人間を信じて、この地へ招いたから……だから……」
少年は言葉を失ったように沈黙し、やがて、静かに口を開いた。
「一体ここで……何があったの?」