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『君と守りし妖精の藍花』第1話 蒼月の森と忘れられた羽音

霧に沈む、蒼月の森。
昼は音もなく白く煙り、夜になると、空に浮かぶ蒼い月が、木々のすき間から淡く光をこぼしていた。

風がそよげば、葉がささやき、時おり小さな羽音が、静けさを裂いて消えてゆく。

昔、この森には——
藍色に光る花が咲き誇っていた。
その花から生まれた妖精たちは、森の記憶と想いを受け継ぎ、緑と水と空気を守って生きていた。

その藍色の花は、夜の湖畔に幻想的な光を灯した。
その輝きこそが「蒼月の森」という名前の由来だった。

けれど今はもう、藍花も、妖精たちも姿を消した。

……ただひとりをのぞいて。

森の奥深く、苔むした大樹の根元に、小さな影が佇んでいた。
それは、手のひらほどの妖精の少女。
夜に溶けるような藍紫の髪に、うるんだ瞳は、どこか遠くを見つめている。

花びらのように透きとおった羽が、ふるえるように淡く光っていた。

彼女の名も、過去も、失われていた。
覚えているのは、仲間たちが笑いあっていた湖畔の夢だけ。
藍花の咲くその場所が、どこなのかも、今はわからない。

どうして、自分だけが目覚めたのか。
なぜ、ひとりなのか。

思い出そうとすると、胸の奥に、ひどく冷たい恐怖がせり上がってくる。
足がすくみ、森の奥へ進むこともできない。

「……わたしは、なにを忘れてしまったの?」

答えのない問いを、今夜も月に向かってつぶやく。
けれど、夜風は何も答えずに、静かに彼女の羽を揺らした。

それでも、心の奥には確かに残っていた。
“誰かに、もう一度会いたい”という想いと、
“まだ果たされていない願い”が。

そしてその夜、遠くで微かに――
新しい風が、森を揺らした。

物語の歯車が、静かに動きはじめたのだった。

* * *

蒼月の森に、夜が満ちる。
冷たい霧が音もなく漂い、星々が、凍てつく空に小さくまたたいていた。

大樹の根元、藍色の髪を持つ妖精は、ひとり静かに目を閉じていた。
けれど——その夜は、いつもと違っていた。

ふと、森の奥から…
微かに、何かが近づいてくる気配があった。

足音。
かすれた息遣い。
木々の間をすり抜け、誰かがこの森を彷徨っている。

妖精は目を開け、そっと気配の方へと向かう。
霧の切れ間、月明かりが差し込んだその場所で、
ひとりの少年が、木にもたれるように座り込んでいた。

服は泥にまみれ、額に小さな傷。
肩で息をしながら、大きな荷を背負ったまま、深く疲れきっていた。

「……人間?」

妖精は、一歩足を踏み出しかけて、立ち止まる。
けれど、なぜかその場から離れられなかった。

——胸の奥が、ほんの少しだけ疼いた。

近づいて、そっと彼の顔をのぞきこむ。
その瞬間、少年のまぶたがかすかに震え、ゆっくりと開いた。

薄暗い夜の中、彼の目に、小さな妖精の姿が映り込む。

「……? 誰か……いるの?」

かすれた声が、夜の静けさを破った。

「おまえ……何者だ?」

そう問いかける妖精に、少年はしばらく黙って見つめたまま、ぽつりとつぶやく。

「……うわ……妖精だ……!」

彼の目が大きく見開かれる。
まるで、ずっと憧れていたものを目の前に見つけたような、そんな目だった。

疲れた身体はもう動かず、それでも少年は懸命に言葉を紡ぐ。

「本当に……いたんだ……。
……やっと……見つけた……」

その言葉を最後に、彼の意識はふっと抜け落ち、静かに眠りに落ちた。

「……やっと見つけた、って……?」

妖精は少年の寝顔を見つめたまま、ふぅっとため息をつく。

この森に人間が迷い込んだのは、何年ぶりだろう。
しかも、“自分を探していた”というような言葉まで残して——

心にかすかなざわめきが生まれた。

長い間、ひとりきりだったはずのこの森に、
今、知らぬ誰かの手が、そっと差し伸べられたような気がした。

彼がなぜここに来たのか、
なぜ「妖精を探していた」と言ったのか。
そして、自分とどんな関係があるのか——

すべては、まだ霧の中。

けれど、少女の胸の奥で、
ずっと眠っていた“物語”が、今また静かに目を覚まそうとしていた。

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