妖精は、そっと少年の前に飛び立った。
小さな羽音が、湖の静けさをそっと揺らす。
「ねえ……」
その声に、少年が顔を上げる。
祈るように見つめるまなざしが、そこにあった。
「私ね、わかったの。私が何者で、なぜ生まれてきたのか……そして、何を残すべきなのかも」
少年は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
その瞳が語っていた——「聞いているよ」と。
「私は……藍色の花を咲かせる“種”なの。
ここに花を根付かせて、妖精の国を再生するための、たったひと粒の種——」
言葉を継ぐうちに、妖精の声は震えはじめた。
顔を伏せ、泣きそうな表情を浮かべる。
「だから……あなたとは、ここでお別れ」
その一言は、少年の胸を鋭く貫いた。
「……どうして、そんな……」
かすれた声で、ようやく絞り出した言葉は、情けないほどに掠れていた。
「一緒にここまで来たじゃないか。なのに、こんな……」
伸ばしかけた手が、途中で止まる。
届かないと知ってしまったから。
妖精は涙を浮かべながらも、揺るぎない決意の光をその瞳に宿していた。
「私は……人間が嫌い。許せない。だけど——」
彼女はふっと微笑んだ。
「あなたと出会って、私は違う想いも知ったわ。
うまく言えないけど、嬉しくて、あたたかいもの。
あなたがいてくれたから、私はここまで来ることができた」
少年の目が、大きく揺れる。
「だから私は、あなたに託したい」
妖精はゆっくりと、少年の手のひらに降り立った。
ふわりと羽が揺れ、淡い光が少年の掌に宿る。
「この種をどう使うか、あなたに決めてほしい。
妖精の国を再び咲かせるためか。
それとも、あなたの大切な人のために使うのか——
どっちも、きっと間違いじゃないから」
優しい声だった。
でも、その別れの覚悟が滲んでいた。
「……どうか、私の“種”を、託させて」
そして、妖精の小さな身体は淡い光となってゆく。
まるで花が静かに散るように——
やがて一粒の光の種へと姿を変え、少年の掌に落ちた。
湖に静かに風が吹く。
空は高く、澄んでいた。
少年の手の中には、藍色にほのかに輝く、小さな種が残っていた。
* * *
少年は、そっと手のひらを見つめた。
掌に残る、妖精の最後のぬくもり。
それが愛おしくて、指を閉じることができなかった。
静かな湖面。
空を映す青が、まるで止まった時のように透き通っている。
「あなたに、託したいの——」
あの微笑みが、今も胸に残っている。
妖精の森に至るまでの旅のすべてが、記憶に蘇る。
小さな羽音と共に歩いた森。
肩に乗った妖精のわずかな重み。
星降る夜に交わした言葉。
怒りと涙。
そして最後に見せた、あの微かな笑顔。
けれど少年の心は揺れていた。
この種を持ち帰れば、病の床にある妹に安らかな夢を見せられるかもしれない。
けれど……彼女の願いも、ここにある。
少年は空を仰いだ。
目を閉じ、深く息を吸う。
やがて、静かに膝をつき、掌の藍色の種を湖畔の柔らかな土へと埋めた。
「僕は……また君に会いたい」
その言葉は、祈りのように、そっと風に溶けていった。
やがて、空から一筋の光が差し込んだ。
その柔らかな光の中、湖畔の土に埋められた小さな種が、静かに脈打ち始めていた——
新たな物語が、そこから芽吹こうとしていた。